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京都の市電廃止は大きな誤りか?

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札幌に対抗して地下鉄導入を決めたからだ。古都に地下鉄は似合わない。札幌は冬季オリンピックと降雪ために導入したが、不便であるらしい。
 
虚子、志賀直哉や岡潔などが愛した市電の大学正門前はなんとも静かで大いなる田舎の印象であったという。
 
また国鉄札幌駅を跨いでいた陸橋も欧州都市の雰囲気を醸し出していたという。大学構内にも石炭列車路線があり、これもまた子供らに夢を与えるものであったという。定山渓温泉へ伸びる定鉄もなんとも旅情溢れるものであった。東札幌駅は廃止され内回りの千歳線も廃止されたままである。
 
今は札幌の人口は195万人で文化的には何もない。あるのは人と車の多さと騒音・空気の悪さのみである。
 
古い歴史の函館の電車はまだ残っているのか?
 
 
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  <1895年に日本初の市電が京都市に誕生し、その後、日本最大の路面電車網となったが、今はもうない。
 
世界各地で市街中心部への車の乗り入れを禁止しようという動きがあるが、京都の市電を復活させる手立てはないのか>
 
京都市を訪れる観光客は年間5700万人近くに上るが、その中で、この街がかつて日本最大の路面電車網を誇りにしていたことを知っている人はごくわずかだろう。
 
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京都は美しい街であり、日本文化の中心だ。今年は明治維新から150年目を記念するさまざまな祝賀イベントが行われている。
 
その一方で、祝賀気分は薄れるものの、京都の歴史におけるもう1つの出来事がある。
 
「市電」の名で親しまれた路面電車網が全面廃止されてから、今年で40年目を迎えるのだ。
 
最近は世界各地で、市街中心部への車の乗り入れを禁止しようとする取り組みが目立つ。
 
さらに、シドニーをはじめ、かつては広範囲の路面電車網を誇りにしていた多くの都市が、「LRT(ライトレール)」システム(日本では「次世代型路面電車システム」とも呼ばれる)の導入や拡大に向けて懸命な努力を続けている。
 
振り返ってみると、市電の全面廃止は京都の歴史における最大の誤りの1つだった。今の京都は、車による支配から逃れようと必死になっているからだ。
 
 
日本で最初の路面電車

京都の市電は、政府が東京に移転した後の経済再生戦略の一環として1895年に開業した。
 
最初の取り組みには、1890年に完成した、京都と琵琶湖を結び、トンネル数本を含む8キロの水路の建設が関係している。
 
これにより日本初の商用水力発電所に水が供給され、そこから新しい路面電車に使用する動力が提供された。
 
市電網は時とともに拡大した。1960年代半ばまでには、総延長70キロを超える路線となり、金閣寺、銀閣寺、京都御所、二条城、清水寺などの主要な観光名所の全てが結ばれた。
 
それでも、規模としては比較的小さい。シドニーにはかつて291キロに及ぶ路線網が巡らされていた。メルボルンのトラムは現在、総延長250キロで世界最長だ。
 
 
 京都が市電を廃止した理由

京都の市電の旅客数は、1965年に年間で2億1000万人を超えていた。一方、シドニーとメルボルンでは、1940年代の最大旅客数がそれぞれ4億500万人と2億6000万人だった。
 
日本は1960年代に高度経済成長を迎え、都市化が進んだ。
 
1970年までに、京都市の人口は140万人を突破。それによって、市電は3つの大きな影響を受けることになった。
 
1つ目は、自家用車の所有が1965年の14万台から1980年には38万台と、3倍近くに増えたことだ(京都市の資料より)。
 
交通渋滞によって市電が遅れるようになった結果、乗客数と収益性が減少した。
 
2つ目は、京都で「人口のドーナツ化現象」、つまり中心市街地の人口が減少し、郊外の人口が増加する現象が起きたことだ。
 
これに対応するため京都市は、郊外にバス網を整備することにした。
 
3つ目は、京都市による地下鉄網の開発だ。1981年には、南北を結ぶ烏丸線の最初の区間が開業している。
 
市電は次第に乗客と資金を失っていき、1978年には当時の市長が全面廃止を決定した。
 
現在残っているのは、京都市北部の短い区間を走る民営の2路線、嵐電と叡山電車だけだ。
 
 
無視された市民の反対の声

市電が廃止されるまでの数年間にわたって、廃止に反対する一般市民の強い声があった。
 
京都大学の教授らが率いる「京都の市電をまもる会」は、市電の経営改善と輸送戦略の統合が前進するための道筋だと主張した。
 
まもる会では、市電を廃止から救うために、20万人を超える署名を集めて請願をまとめた。
 
市電の存続は、交通量増加による大気汚染の回避に役立つ。さらに市電は、地元住民のニーズを満たすだけでなく、重要な観光名所にもなるという主張だった。
 
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だが請願は無視された。
 
市電網は撤去され、バス路線が市内全域に広がった。
 
地下鉄東西線は1997年に最初の区間が開業し、2008年に完成している。
 
メルボルンからの教訓

一般的に日本の公共交通機関は世界有数の路線網を誇るが、どうにか路面電車を維持できている都市となると、その数は多くない。35キロの路面電車網がある広島は数少ない好例だ。
 
京都の市電廃止がもたらした影響について考えるには、メルボルンの例が役に立つかもしれない。この2都市には、興味深い類似性がいくつかある。
 
どちらもかつて首都機能を担ったことがあり、道路は碁盤目状になっている。
 
いずれも早くから路面電車を採用している(メルボルンは1889年、京都は1895年)。どちらにも世界レベルの大学があり、観光産業が地元経済に大きく貢献している。
 
さらに、両市とも1970年代に、路面電車網を維持するかどうかについて重要な決断を迫られた。
 
メルボルンでは、路面電車を廃止しようとする圧力が、一般市民と労働組合の非常に強い反対によって阻止された(京都では労働組合の働きが欠けていた)。
 
メルボルンの経験は、もし京都が市電を維持していたら起きたかもしれない、いくつかの重要な機会を示唆している。
 
1. 新しい技術と乗員定数を大幅に増やす長い車両の導入によって、市電は徐々に改良されていっただろう。広島の「グリーンムーバーマックス」は、現在の京都に打ってつけの車両だ。
 
 2. 路面電車の軌道を優先させることによって、京都市中心部で歩行者用のスペースが増えていたかもしれない。メルボルンのバーク・ストリート・モールやスワンストン・ストリートがその良い例だ。
 
京都では近年、中心部の交通量を管理・規制しようとしてきたが、大通りのいくつかで歩道を広くするといった、わずかな変更を施すに留まっている。
 
3. 市電は観光客数の増加を、現行の交通機関よりもうまく処理できた可能性がある。今年はじめの報道によると、観光客の増加に伴い、バスが定刻通りに運行するのが困難になっているという。
 
バスと市電、地下鉄を統合した交通網があれば、これらの問題は緩和されていたかもしれない。
 
2. 京都市が2010年に掲げた「京都市地球温暖化対策計画」では、徒歩で移動できる低炭素な街づくりの促進を目指している。そのための取り組みの1が、2010年には50万8000台だった自家用車の所有を2020年までに47万5000台に減らすことだ。
 
市電網はこの計画を支え、温室効果ガスの放出削減に役立っていただろう。これは京都議定書が採択された都市にとって非常に意味のあることだ。
 
 
 頓挫した「市電復活の取り組み」

上に挙げたことは全て、市電の再導入が京都にもたらす利益を示唆している。
 
京都市は2006年、複数路線のLRT(ライトレール)導入について計画の検討を始めた。専門家グループを設置してさまざまな選択肢を調査し、公開シンポジウムも開催した。
 
既存の道路上にロードコーンを並べて設定した「ライトレール路線」にバスを走らせる実験も行われた。
 
しかしこうした活動は、2007年に京都市民を対象に実施された調査で、回答者の52%が新しいLRTシステムに反対したことをきっかけに中止された。
 
計画の主な対象は観光客であり、地元にはほとんど利益をもたらさないことや、交通渋滞が悪化する可能性に対する懸念など、理由はさまざまだった。
 
日本初の路面電車であった京都の市電。
 
人々がかつて抱いていた深い愛情を思い出す人は、現在の京都にはほとんどいない。
 
(翻訳:ガリレオ)

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