文字の発明で記憶力が薄れるとプラトン「パイドロス」にある。活版印刷技術、コピー機で文献をコピーし机にうず高く積み上げて読もうともしない。江戸時代の芭蕉の記憶力は一冊の荘子本を丸暗記できるほどであったという。現代人にこのようなキャパはないであろう。
情報・記憶のツールたる書籍、新聞、ラジオ、TV、映画、磁気テープ、レコード、CD盤、タイプライター、ワープロ、PC等など。
スマホ、インターネットでさらにどんな影響が出るか興味深い。
文明の進歩によりどんどん記憶力が薄れるのでしょうか?
文明の進歩によりどんどん記憶力が薄れるのでしょうか?
** hit-u.ac.jp/hq/vol017/pdf/p16-17 古澤ゆう子
文字の発明と知恵の浅薄化
文字の発祥についてプラトンは『パイドロス』のなかで創作神話を語る。エジプトの神テウトは算術や幾何学や天文学、さらには将棋や双六などを発明したが、そのなかに文字があった。
テウトは技術工夫にたけたエジプトのヘルメスとされる神である。彼は自分の
発明の数々を至高神タモスに示してその効用を説いた。文字に関しては
発明の数々を至高神タモスに示してその効用を説いた。文字に関しては
「これによって人々の知恵が増し、物覚えがよくなるでしょう。これは記憶と知恵の秘訣なのです」
と自慢した。ところがタモスは文字の影響はその反対で、人は文字を学ぶことで記憶力が減退し忘れっぽくなると指摘する。
「ものを思い出そうとするときに、書いたものに頼って外から思い出すようになり、自分の力で内から思い出さなくなる。」
だから文字の発明は記憶ではなく想起の技術であり、文字を学ぶ人の知恵は、知恵の外見であって本当の知恵ではない、それなのに博識に見えるから知者であるかのようにうぬぼれて、つきあいにくい者になると批判したというのだ。
まことに文字に頼る知識は自分の知恵ではないと言われて反対はむずかしい。現にこの文を書くために『パイドロス』を本棚から探し出して確かめざるを得なかった。
なにかについて「あの本のどこらへんに載っているか知っている」だけでは、本当に「知っている」ことにはならない。しかし世の多くの「知者」は自分の内に持つまでにいたらない知識を売り物にして世過ぎをしている。
ドイツ留学中に「学生は覚えていることが要求されるが、教師はどの本に書いてあ
るか知っているだけでよい」という諺を聞かされ、けしからんと思ったが、いまはこの制度にあぐらをかいて教師面をする日々である。
さらに「覚えていることを」要求されるはずの学生の論文やレポートでも、世にあふれる文字情報を、書物を読むまでもなくインターネットで探し出し、貼り付けることが可能になった。コンピュータもネット技術も、テウトの発明であろう。テウト=ヘルメスの杖の下にある一橋大学の成員は、この神のずばぬけた創意工夫に感謝しながら、効能を賢く利用し同時に負の側面を補う道を探さねばならない。
その際、興味深いのは、プラトンがここで話題にしているのが、個人の独創性とかオリジナリティの重要性ではなく、他から伝えられた「知」をいかように自分のものにするかだということである。
「知者」つまり賢い者とは、学んだことを自分の内に彫り込む者で、石や紙に刻まれ書かれた印、もしくはパソコン画面に映し出される像に頼らない。ただし自分の内に彫り込む過程で、当人独自の理解と判断が加わらざるを得ないから、このようにして獲得した知識が個人のオリジナリティとなるとの考え方である。
ところが、プラトン自身は師と異なり、数多くの著作を残している。この矛盾を彼は書くことは「慰み」だと釈明している。すぐれた言葉とは
「学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる」
「語るべき人には語り、沈黙すべき人にはだまっている」
「誤解から自分を守るすべを知っている」
語りであるが、書かれた言葉はこの言葉の「影」であるという。年取って忘れっぽくなったときに備える自分のための忘備録、また後世、自分と同じ知の探求をする人のための覚え書きである。
こうした書き物をするのは楽しいから「慰み」ではあるが、これがもっとすぐれた言葉の「影」にすぎないことを忘れてはならないという。
そこで彼の残した書物は、一人だけが語る講義録ではなく対話篇だった。直接参加できなくても対話を読む者は、様々に異なる登場人物の考えに対する自分の判断を求められる。
一人の考えを伝える内容を覚え理解するだけでなく、自分はどの意見に賛成か反対か判断しながら文字を追ってゆくことになるからだ。そのうえ、悲劇詩人を目指したことのあるプラトンは、対話場面の描写や登場人物の性格の書き分けで、その場に居合わせるかのような現実感を与えてくれる。プラトンが「慰み」を残してくれたことに、感謝の念をささげたい。
写真を撮ると記憶が薄れる?
2013.12.11 Wed posted at 14:36 JST (CNN)
自分が見たものを写真に撮ると、その被写体についての記憶は薄れる傾向にある――。そんな研究結果が心理科学誌に掲載された。
「カメラを取り出すと、自分が見ているものに注意を払わなくなり、実際にそこにいることよりも写真を撮ることの方が大切になる」
と研究者は指摘している。
米フェアフィールド大学のリンダ・ヘンケル氏は、美術館で大学生に作品を鑑賞してもらい、写真撮影と記憶との関係を調べた。
1回目の実験では27人が絵画や彫刻、陶芸など30点の作品を鑑賞。一方のグループは作品名を声に出して読み上げ、20秒間鑑賞した後に写真を撮った。もう一方のグループは30秒間鑑賞しただけで写真は撮らなかった。
翌日、覚えている作品名を書き出してもらい、作品30点のリストの中から自分が見たものと写真に撮ったもの、見ていないものを選んでもらった。また、作品の細部についても質問した。
その結果、写真を撮ったグループは、鑑賞だけのグループに比べて覚えている作品が少ないことが判明。作品の細部についての記憶も鑑賞だけのグループより少なかった。
この結果についてヘンケル氏は、
「カメラが覚えていてくれると思うと、記憶に残る被写体の数が減り、その被写体の細部についての記憶も減る」
と解説する。
2回目の実験では46人がそれぞれの作品を25秒ずつ鑑賞し、指定された作品については時間を延長して写真を撮った。一部の被験者には、作品の特定部分を拡大したズーム写真を撮ってもらった。
翌日、記憶をテストした結果、1回目と同様に、写真を撮った被写体については記憶が薄れる傾向があった。ただ、ズーム写真を撮影した場合は、その部分だけでなく作品全体について記憶が残っていることが判明。作品を鑑賞しただけの場合と、ズーム写真を撮った場合では、記憶の正確さは同程度だった。
もっとも今回の実験の被験者は数が少なく、女性が中心だった。この結果を裏付けるためには被験者を増やし、男女比や年齢なども調整する必要がある。
marginaliae.wordpress.com/2010/06/19