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チロル南部のケルト人?

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ヒトラー第二の書に以下の文章があるが、ケルト人といえばアイルランドとばかり思っていた。
 
チロル地方は古くはケルト人の居住地で、ロ ーマ帝国、フランク王国などの統治を経て十一世紀にチロル伯領が成立し、南チロルを領有した。
 
 
 トリスタン伝説を生んだケルト人とは
 
clarte-net.co.jp/clarte/04adult/tristan/htmls/kelto
 
 トリスタンとイゾルデの物語は、中世、12世紀半ばに、ヨーロッパの物語作者達によって書かれた。アーサー王物語などと共に、それらは、おそらく文字として書きとめられる以前には、口承によつて語りつがれたケルト伝説を起源としていた。12、3世紀の物語作者達は、ケルトの伝説を、ブリテンの話材として尊重した。
 
トリスタンの原型も、ケルトの伝説からで、最も初期の形は、老いた王に嫁いだ若い妃が王の忠実な家臣と道ならぬ恋に落ち、二人して王を捨てて、放浪したあげく、結局追われて殺されてしきう「駆け落ち譚」であったと云われる。
 
ヨーロッパの基礎、ヨーロッパのルーツとも云われるケルト人とは、どんな人達だったのであろう。
 
 オーストリアのハルシュタットで発見された遺跡には青銅と鉄の武器や生活道具があった。
 
そして火葬のあと、骨つぼに入れて埋葬する風習も発見された。それらから、紀元前九世紀にはハルシュタット文化がはじまつたと云われる。
 
そして東方から伝えられた鉄の作り方をとり入れることで、前1700年頃に始まつたと云われる青銅器の金属文明に鉄という大きな魔力が加えられたのである。そのハルシュタット文化の末期にあらわれたのがケルト人であった。
 
彼等は、前5世紀には、塩と鉄の利用法を身につけ、重い剣や斧、そして土をたがやす犁の先に鉄を使い、そして馬と戦車を加えた鉄器文化を駆使して、四百年にわたってヨーロッパを席捲した。
 
 ラ・テーヌ文化とよばれるものは、ヨーロッパを我がものとしたケルト人の象徴的なものである。
 
ケルト人は、インド・ゲルマン語族に属し、金髪で背が高く、気候の変化のため、本来の故郷(ダニュウブ川=ドナウ川=の上流、水源地近くか)を捨てて西へ移動を始め、ヨーロッパ各地に散って行った。
 
ケルト人には
 
平原のケルト、
山岳のケルト、
島のケルト
 
とよばれる三つの大きな流れがある。
 
平原のケルトは、前5世紀、ドナウ川の上流からアルプスを越えて、南チロルとポー平野にいたエトルリア人を追い払って住んだ部族で、イタリアへまで拡がり、トリノ(タウリーヌム)、ベルギー(ベルガェ)、ダニュウブ(ダヌヴィア)等の名付親となっている。
 
山岳のケルトは、最も好戦的な部族で、ライン川の上流からスイス、北部フランス、西ブリテンへ展開。
 
前四世紀には、シエナでローマ人と衝突、ローマに進撃してローマを焼いた上、賠償金を得て撤収しているし、またガリアに拡がり、スペイン、ベルギー、デンマークヘ。一部はユーゴ、ルーマニア、ブルガリアにも住み、ハンガリーからトラキア、マケドニアとヨーロッパ全域に拡がって散在していた。
 
「もしこの動きが一つの意志によって導かれていたらヨーロッパ史上最大の帝国の一つが生まれていただろ」
 
(G・ヘルム)と云われる。それは、これだけ広い地域に拡がっていた事自体、ケルト
という単一の民族ではなく、多数の部族が共通した言語や習慣、宗教、文化を持ち、一つの政治型態を持って定住していたと云うことであろう。
 
長期にわたる移動や戦いの間に、他民族と混ざりあい純粋民族としてのケルトは存在しないとさえ云われる。
 
それは反面、ヨーロッパをつくる基になったのはケルト人だと云うことになる
 
島のケルトとは、前六世紀頃、ブリソニック語を話したケルト人達で、スペインからブリテン諸島に渡り、又ゴイデリック語を話すスペイン系のケルト人は前七世紀には既にアイルランドへ渡っている。
 
 はじめてアイルランドに定住したのは青銅器時代の初期、前18世紀頃とされている。(ケルトの神話では五つの種族が次々と入島したとされる。)彼等は、ブリテン諸島に拡がり、スコットランド、ウエールズ、イングランド、マン島、アイルランドに住んだ。
 
前1世紀にブリテン島に渡ったJ・シーザーは、陸のケルトと島のケルトの血筋がつながっていることを記録している。
 
シーザーはケルトをガリア人と呼び、ガリア戦記を残した
 
シーザーに敗れたケルト人は、次第にローマ化されていくが、アイルランドだけはその被害を免がれた。それをシーザーは、
 
「ケルト戦士は死を恐れず、死後も魂は滅びない」
 
と云う信念を持っており、それを恐れたからだと云っている。
 
シーザーを畏怖させ、ハルシュタット、ラ・テーヌ文化をつくつて来たケルト文化の遺産は、古代アイルランド人によって緑の豊かな島アイルランドに、そのままの形で保存されたのである。
 
口承されつづけてきた多くの伝説が、神話制作者によつて何世紀もの間凍結され、元の形のまま受けつがれた。
 
ケルト神話は、島のケルト、アイリッシュの神話を語ることである。神話の騎士、ク・ホリンとコンホヴォル王の関係は、ギリシア神話のアキレウスとアガムメノン、ランスロットとアーサー王、そしてトリスタンとマルク王の関係と酷似している。古い物語やケルトの全知識は、紙と文字で記録されるのでなく、生きた頭脳に収められ、再び生きて次代へ、何世代にわたって生きて伝わっていった。
 
 語り部(フィラ)や竪琴を弾唱する吟唱詩人(ボェルジ)、他の王城を廻って出来事を歌いひろめる吟遊詩人(バード)によって継承されていったのである。それ等が中世、物語作者によつて、更に、千年の長きにわたって世界中に親しまれ、読みつがれて来たのである。
 
(参考文献)
 井村君江著『ケルトの神話』
 リチヤード・バーバー著『アーサー王その歴史と伝説』
 樺山紘一著『ヨーロッパの出現』
 
 
 ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/johaneum2b
 
 ケルンテンはケルト語に由来する言葉とみられており、語源は諸説あるが、そのひとつは石や岩を意味するカラント karanto。
 
イメージ 1紀元前にはケルト人のノリクム王国があった。州面積の半ばは標高1000mを超える山地で、人がほとんど住んでいないエリアである。
 
ヨハネウムに収蔵された大量の標本の中には、今日でも詳細な分析が続けられているものがあって、いくつかの新鉱物が発見されている。
 
シュタイアーマルク州原産では Trattnerite (トラットナー石/ ストラドナー・コーゲル産/ 2002年)や Klochite (クレーヒ石/ クレーヒ産 /2007年)、またケルンテン州境のヴァインベーネ山地からヴァインベーネ石(Weinbeneite 1992年)が記載されている。
 
珍しいところではチリ、イキケ産の標本から発見された Ammineite(アンミン石 [CuCl2(NH3)2] / 2008年)がある。自
 
然界に錯体化合物の組成を持つ鉱物はごく稀にしか存在しないが、アンミン石は初めて発見されたアンミン錯体鉱物である。
 
イメージ 2また2012年には同じ産地の標本から [Cu(C3N3O3H2)2(NH3)2] の組成を持つ鉱物が報告され、ヨアネウムに因んで Joanneumite (ヨアネウム石)と命名された。
 
現在知られているアンミン錯体鉱物はこの2種のみである。
 
 
 
 
 
 
 
 
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