苦難の中に天才性は芽生える。
色覚異常といえば近代的原子論の提唱者のドルトン((John Dalton, 1766年9月6日 - 1844年7月27日))がいます。Wikiによると「自分自身と親族の色覚を研究し、自らが先天色覚異常であることを発見したことによって、ドルトニズムの語源となった。」という。
ドルトンの科学への情熱の源泉
盲目の哲学者で博物学者のジョン・ゴフ (en) に師事して科学知識を身につけ、新たに創設されたマンチェスター・アカデミー(後のハリス・マンチェスター・カレッジ)で数学と自然哲学の教師になった。1800年までそこで教師を続けたが、大学の財政が悪化したため職を辞し、数学と自然哲学の家庭教師として働くことにした。
若いころのドルトンはイーグルスフィールドのクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソンに強く影響を受けている。
ロビンソンは有能な気象学者で機器製作者であり、ドルトンに数学と気象学への興味を植えつけた。ケンダルにいたころ、ドルトンは Gentlemen's and Ladies' Diaries 紙に寄せられた様々な問題や疑問に答えており、1787年から気象学に関する日記をつけ始めた。
その後の57年間で日記には20万以上の気象観測記録が記された。同じころジョージ・ハドレーの大気循環理論(ハドレー循環)を独自に再発見している。ドルトンの最初の出版物は Meteorological Observations and Essays (1793) で、後の発見の萌芽がいくつか見られる。しかしその独創的論文に他の学者が注目することはほとんどなかった。2作目の Elements of English Grammar は1801年に出版。
先天的色覚異常
1794年、マンチェスターに移って間もなく、ドルトンは Manchester Literary and Philosophical Society、通称 "Lit & Phil" の会員に選ばれた。その数週間後自らの色覚を題材にした論文を発表し、先天色覚異常が眼球の液体培地の変色によって起きるという仮説を提唱した。
西欧近代科学においては、ドルトンが自らの色覚を観察し発表するまで先天色覚異常に関する学術研究が行われていなかったとの定説がある。
ドルトンの仮説の誤りは存命中に明らかになったが、研究の先駆性が評価され、先天色覚異常をドルトニズムと呼ぶようになった。
ドルトンの死後保存された眼球の組織を1995年に調査したところ、ドルトンの先天色覚異常は中波長の錐体細胞(M-錐体)が働かないもの(2型2色覚)であることが判明した。なお、ドルトンは論文で次のように記している。
他者が赤と呼ぶ色は私には単なる影のやや明るい部分にしか見えない。オレンジ色、黄色、緑は様々な明るさの黄色にしか見えない。
この論文に続いて、雨と露、湧水の起源、熱、空の色、水蒸気、英語の助動詞と分詞、光の反射と屈折といった様々な主題の論文を書いた。
色覚異常の中高生、半数気づかず進学・就職
2013年9月19日21時35分 読売
日本眼科医会は19日、2010~11年度に全国の眼科医で先天的な色覚異常と診断された941人に聞き取り調査をしたところ、進学や就職時期を控えた中高生(185人)では約半数が異常に気づかず、中には進路選択に支障が出るケースもあったと発表した。
小学4年で行われてきた学校の色覚検査が03年度以降、ほとんど行われなくなった影響とみられ、同会は検査の必要性を訴えている。
調査結果によると、03年度以降に小学4年生になった世代で、進学や就職を控える中高生では45%の85人が異常に気づいていなかった。
先天性の色覚異常は男性20人に1人、女性は500人に1人に見られる。色を感知する細胞の異常で赤と緑が判別しにくいなどの障害が出る。
かつては小学校で検査が行われてきたが、差別につながるなどの理由から、03年度以降、学校保健法上の必須項目から削られて任意実施となった。