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分子内銅塩触媒CH・NHCoupling反応

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分子内銅塩触媒CH・NHCoupling反応が面白い。
 
分子間と同じくポイントはC-H結合のActivationである。
 
www-gaunt.ch.cam.ac.uk/activation.sht
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メカニズムも共通
 
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We are interested in developing new inter- and intramolecular C-C bond forming reactions catalysed by transition metals. In particular, our research focuses on the activation of C-H bonds and we are investigating methods by which sp, sp2 and sp3 hybridised C-H bonds can be activated by transition metal catalysts under ambient conditions to form a diverse range of useful molecular architectures.
 
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「鈴木章ホール」が完成したという

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鈴木さん、83歳でまだ元気ですね。文科省さんよ、泥まみれの理研の理事長を野依さんから清楚な鈴木さんに変えたらいかがでしょうか。白川さんでもOK。
 
両人とも管理運営だけはまっぴら御免でしょうね。
 
建物だけ立派になっても人材が育たないと困る面もある。理研のように金欲しさにデーター捏造だけは止めてほしい。

北大にノーベル賞記念し研究棟 鈴木章名誉教授が講演
 
   2014年6月12日 19時59分 中日新聞
 
イメージ 1  講演する鈴木章北海道大名誉教授=12日、札幌市の北海道大
 
 鈴木章北海道大名誉教授(83)が2010年にノーベル化学賞を受賞したことを記念した研究棟「フロンティア応用科学研究棟」が北大に整備され12日、落成式が行われた。自らの名を冠した講堂「鈴木章ホール」で講演した鈴木氏は
 
「研究生活の大部分を過ごした北大に新研究棟ができとてもうれしい」
 
と述べた。
 
 鈴木氏は後輩の教職員や学生ら約160人を前に
 
「誰もやっていないオリジナリティーのある研究を教科書に載るような仕事に発展させるという気持ちで取り組んでほしい」
 
とエールを送った。
 
 鈴木氏は、2種類の有機化合物を簡単に結合させる手法を開発した功績からノーベル賞を受賞した。
 
(共同)
 
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オオカミ、目で意思疎通?

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オオカミだけの現象ではないでしょう。ネコでも視線で意志疎通をしていますよ。子供達でも昔はガンをつけられたと良くケンカをしたものです。
 
チンピラは「昔は道を歩いている時にちょっと目があっただけでも「何見てんだこら」などと喧嘩をうられる物騒な時代」であった。
 
昔の学生さんはきちんとアイ・コンタクトによって、気もちが通じていると感じることや、親愛の情を感じることもありましたが、最近は殆どありません。スマホ世代特有な現象かも知れません。

猫の喧嘩に驚く猫 どうしようって視線を投げかけられた
https://www.youtube.com/watch?v=cZPE3hvMO6A
 
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mirai.ne.jp/~nal/neko_q&a10

 出会い頭のにらみあいなどで、威嚇しても相手が逃げない場合は、いよいよ戦いのゴングが鳴ります。目標は相手の首に正確に噛みつくことです。
 
睨み合っていた双方がにじり寄ると、まずどちらかの猫が素早く相手の首に噛みつこうと跳びかかります(ネコパンチ)。
 
攻撃されたほうの猫は仰向けに倒れ、噛もうとする相手の口を自分の口で防ぎながら、前足で相手の体をとらえ、後ろ足で相手をキックします。相手も同じような体勢にならざるをえないので、組んずほぐれつ地面をころげまわります。
 
 激しい縄張り争いなどの場合、猫は侵入者に対して威嚇することなくいきなり突進し、前足で相手の首筋めがけてパンチを与えます
 
実力のある相手なら、すぐさまパンチを打ち返します。そしてお互いに後ろ足で立った状態で、激しいパンチの応酬がくりひろげられるのです。
 
 取っ組み合いやパンチ合戦が続くうちに、どちらかが後方に下がると、ひとまず第1ラウンドが終了となります。両者分け合い、一定の距離を置いて座ります。
 
このとき猫は、ケンカなど忘れたかのように、自分の体をしきりになめて、毛づくろいすることがあります。ケンカの最中なのになんとのんびりしたことか、と呆れるのは早まった考えです。
 
猫にとってケンカは、これ以上ないという緊張場面なので、最高潮に達した緊張感に耐えきれず、一時休戦の間になんとか自分を落ち着かせようとし、毛づくろいという行為に走るのです。
 
そしてどうにか心が落ち着くと、やがて思いだしたように第2ラウンドに突入します。このようにして一時休戦をまじえながら、どちらかが負けを認めるまで、戦いは何ラウンドとなく繰り返されます。
 
 
オオカミ、目で意思疎通 京大グループが研究
 
 2014年06月12日 13時49分 京都新聞
 
仲間を見詰めるハイイロオオカミ(京都大チーム提供) 
 
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鋭い目つきのオオカミは視線を使ったコミュニケーションをしている可能性が高いことが、京都大野生動物研究センターの植田彩容子教務補佐員や幸島司郎教授らのグループの研究で分かった。オオカミと似た目をしたイヌがヒトと共同生活を送れたのも、同様のコミュニケーションが役立ったのではないかという。米科学誌プロスワンで12日発表した。
 
 オオカミは、明るい色の瞳(虹彩)の真ん中に黒い瞳孔があり、視線が分かりやすい。
 
一方、同じイヌ科でもタヌキやヤブイヌは虹彩が暗い色をしており、視線は目立たない。
 
 グループは、オオカミ(ハイイロオオカミ)11頭とヤブイヌ4頭で、相手に顔を向けてじっと見つめる行動の持続時間の長さを比較した。
 
その結果、オオカミは平均約3・3秒で最長は38秒に達したが、ヤブイヌは平均約1・4秒で最長でも6秒にとどまった。
 
 オオカミの方が相手を見ている時間が長いことから、視線によるコミュニケーションの可能性が考えられるという。植田教務補佐員は
 
「オオカミが視線を使ってどんなやりとりをしているのか調べたい」
 
と話している。

Googleの小型分光器 「SCiO」

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小型分光器は今や10万円台で販売されていますが、グーグルの「SCiO」はスマホ対応の超小型分光器でしょうか?  NMRもIRも数万円で買える時代が来るであろう。X線構造解析装置は10万単位で。
 
SCiO molecular scanner: This is how a handheld spectrometer works
https://www.youtube.com/watch?v=pVCUC2BuGc0
 

「万物のGoogle」を目指す携帯スキャナー「SCiO」
 
2014.5.30 FRI wired.jp/2014/05/30/scio/
 
食品や薬品など物体の分子組成を分析できる携帯スキャナー「SCiO」が話題だ。「モノがネットで接続される近未来」のGoogleになりうる製品だ。
 
TEXT BY ISSIE LAPOWSKY
PHOTOS BY CONSUMER PHYSICS
TRANSLATION BY MINORI YAGURA/GALILEO
 
「Google」は素晴らしいシステムだが、欠点もある。
 
物理的なモノを検索できないことだ。薬剤についての情報であればGoogleで検索できるが、ハンドバッグの底で、何の薬だったか忘れてしまった昔の錠剤を発見した場合は、その用途は「ググれない」。
 
イメージ 1こうした状況を変える必要があると考えているのが、Consumer Physics社の共同創設者兼最高経営責任者(CEO)のドロール・シャロンだ。イスラエルの都市テル・アヴィヴを拠点とする新興企業である同社は、ハンドヘルドスキャナー「SCiO」によってこの問題を解決しようとしている。
 
SCiOは、フラッシュメモリーほどの大きさで、食品や薬品をスキャンすると分子組成を調べることができる機器なのだ。
 
スマートフォンに搭載されるカメラが進化したおかげで、光学技術の小型化には、すでに多くの時間と金が費やされてきた。
 
Consumer Physics社の共同創設者であるシャロン氏とダミアン・ゴールドリングは、こうした技術の大きな進歩を利用して、小型スペクトロメーター(分光計)を開発できると考えた。
 
スペクトロメーターは、世界中の科学研究所ですでにで活用されている技術だが、これを小型化して一般の人に使いやすくすれば、大きな可能性があると考えたのだ。
 
2人は物理学者、エンジニア、データサイエンティスト、食品技術者、光学設計の専門家らを集めて開発チームを結成した。
 
特定の波長の光を物体に当てて分子を振動させると、反射光から、物体の分子署名(molecular signature)がわかる。SCiOのアプリでは、アルゴリズムを利用して、この分子署名をデータベースと照合し、エンドユーザーに物体の分子的組成を教える。
 
「これらの物質世界の『指紋』を集めた世界最大のデータベースを構築し、開発者に対して、新しいアプリケーションを開発するためのプラットフォームを提供するつもりだ」
 
とシャロン氏は語る。Consumer Physics社が、Khosla Ventures社などからヴェンチャー資金をすでに調達していながら、先月、「Kickstarter」でキャンペーンを開始したのもそのためだ。

Kickstarterでの最初の支援者は、150ドルのSCiOとアプリを使って植物や食品、薬剤を分析できるが、シャロン氏は、それは手始めにすぎないと考えている。Consumer Physics社は独自のアプリケーション開発キットを開発済みであり、これを使用した人々によって開発される成果を楽しみにしているのだ。
 
「こういったシステムは、いずれスマートフォンやウェアラブル機器、ネットに接続された端末に組み込まれるようになると絶対的な確信をもっている」
 
と同氏は言う。
 
シャロン氏は、食品が腐る時期を正確に判断できるスマート冷蔵庫や、薬が偽薬かどうかがわかるスマート薬瓶、タイヤにもっと空気を入れる必要があれば、それを教えてくれるスマート駐車場などを心に思い描いている。また、特に農業や石油化学、化粧品の分野で応用できると考えている。
 
締め切り日まであと17日を残しているが、すでに目標額20万ドルをはるかに超える200万ドル以上が集まった。最終的な製品は、年内にKickstarterの支援者への出荷が始まる予定だ。
 
SCiOについては疑問の声も聞こえる。ロイヤルメルボルン工科大学応用科学部のオリヴァー・ジョーンズ博士が最近、米CNETに語ったように、Consumer Physics社が
 
「小型化のために感度を犠牲にした」
 
可能性もある。
 
しかし、可能性も大きい。われわれは
 
「インターネットでモノが接続される革命」
 
の間近にいる。SCiOで野菜などの栄養素分析ができることは確かに面白いが、本当に興味深いのは、この機器をベースにして構築されていく技術やアプリケーションなのだ。

π-Extended Dibenzophospholeの合成研究

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π-Extended Dibenzophospholeの合成研究という。π電子系の拡張は光学的、電子的に興味深いテーマである。何か面白い発見は?
 
 
springermaterials.com/docs/substance/VQHTKTRYBGJLGGTQ
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wwmm.ch.cam.ac.uk/crystaleye/summary/rsc/cc/2005/12/data/b417716a/b417716asup1_pdpbenztrop/b417716asup1_pdpbenztrop.cif.summary
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ノバ社巨額不正事件における大学関係者

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多くの大学関係者も処罰されるであろう。
 
データ  diovan-novartis.blogspot.jp/
 
Kyoto Heart Study (試験統括責任者:京都府立医科大学 松原弘明
 
Jikei Heart Study(First and corresponding author:武蔵野大学メディカルセンター 院長、元東京慈恵医科大学教授 望月正武
 
Nagoya Heart Study(Corresponding author:名古屋大学大学院医学系研究科循環器内科教授 室原豊明

VART(Last author:千葉大学大学院循環病態医科学循環器内科 小室一成
 
・ SMART (Last and corresponding author:滋賀医科大学病院長 柏木厚典
 
白橋伸雄(ノバルティスファーマ社の社員:大阪市立大学非常勤講師として身分を隠し臨床研究の統計解析に関与。データ捏造への関与が疑われている。また、所属先として記された大阪市立大の研究グループは存在しないことがわかった。元社員は市立大の非常勤講師を兼務していたが、参加した5大学の臨床研究の全てで、市立大の許可を得ていないことも判明。市立大側は「重大な虚偽の記載」とみて調べている。)
 
松原弘明(京都府立医科大学循環器内科教授:Kyoto Heart Studyの統括責任者。臨床研究データ捏造への関与が疑われている。また、基礎研究論文では既に、14論文における論文捏造が京都府立医大の調査委により認定されている。捏造基礎研究論文をもとに虚血治療の臨床試験を行っており、人体実験にあたるのではないかという批判もある。日本高血圧学会の元理事。)。
 
2013年2月28日に退職。その後、論文不正の責任により、退職手当額全部返納の処分が下され、2013年10月10日に全額が返納された(参考→「臨床研究事案等を踏まえた再発防止策 及び 教員に係る処分等について」)
 
小室一成(千葉大学、大阪大学、東京大学循環器内科教授:VART関係者、日本高血圧学会理事。基礎研究論文でも疑惑あり。15論文におけるデータの不適切な利用が疑われている。日本高血圧学会の理事。)
 
光山勝慶(熊本大学大学院生命科学研究部生体機能薬理学分野教授:Kyoto Heart StudyのEndopint committee member、元 大阪市立大学医学部・医学研究科所属、日本高血圧学会理事。基礎研究論文でも疑惑あり。9論文におけるデータの不適切な利用が疑われている。2013年8月4日に高血圧学会学術誌Hypertension Researchの編集長を辞任。)
 
森下竜一(大阪大学大学院医学系研究科 臨床遺伝子治療学教授:日本高血圧学会理事。小室・光山・堀内氏らとディオバン宣伝のため何度も座談会に参加、基礎研究論文でも疑惑あり。ATVB. 2011;31:713-20.の論文と、Hypertens Res. 2010;33:114-5.の論文における他者論文からの英文の盗用が疑われている。)

萩原俊男(大阪大学大学院医学系研究科 老年・腎臓内科学教授:Jikei Heart Studyに賞賛のコメント、基礎研究論文でも疑惑あり。森下氏と共著のATVB. 2011;31:713-20.の英文盗用疑惑論文の最終著者。)
 
堀内正嗣日本高血圧学会理事長、 小室・光山・森下氏らとディオバン宣伝のため何度も座談会に参加)
 
青野吉晃(ノバルティスファーマ社の元営業本部長、現在は日本べーリンガーインゲルハイム社長、白橋伸雄社員が統計解析者として関与したディオバン臨床研究における身分隠蔽(COI違反)を認識していた可能性が高い)
 
藤井幸子ディオバンの市販準備からマーケティングの責任者として辣腕を振るい、売上げ年間1000億円を達成するまで担当した。
 
当時の肩書は『ディオバンマーケティング部長』。ノバの企業カラーである『赤』のスーツに身を包み、足しげく大学病院に通っていた。実際に彼女はいろいろな大学にパイプを持っており、日本高血圧学会の幹部にも食い込んでいた。)
 
原田寿瑞(2002年より、ノバルティスファーマ株式会社にて、高脂血症治療薬、高血圧治療薬のマーケティングマネージャーを担当。2006年4月1日まで、医薬品事業本部 循環器事業部 マーケティング部 ディオバングループ グループマネージャー。その後、医薬品事業本部 マーケティング本部 循環器領域マーケティング部長などを歴任)
 
宮田満(ディオバン発売以前よりノバルティス社によるプロモーション戦略に参画し、臨床試験の経過や成果を大きく紹介してきた「日経BP社(日経メディカル)」の特命編集委員。また、個人的にも、ノバルティス社主催のバイオキャンプで講演したり審査員代表を務めるなど、ノバルティス社と利益相反関係にある人物。
 
このようにノ社と利益相反関係にあるもかかわらず、なぜか、「ディオバン臨床研究問題にの欄には何も記入しなかったことから、虚偽申告が疑われている関する厚労省検討委員」に選ばれる。
 
また、委員会参加に関する申告書には、「ノ社からの金銭の受領なし」と記載し、
 
「審議の公平さに疑念を生じさせると考えられる特別の利害関係を有することがありましたらご記入ください。」
 
の欄には何も記入しなかったことから、虚偽申告が疑われている

高原にシャスターデージーの白群れる

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高原にシャスターデージーの白群れる時期です。真夏の暑さはなくなったのですが、でも暑い。そして今度は豪雨です。
 
例年7月1日に咲くアカシアの白花がもう咲いてきました。写真でははっきりしませんが、右の木々です。
 
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あれ?ボタンは雪害で消えると思っていたのですが。元気に巨大な一輪。
 
 
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黄ヤローを大岩の傍に植えてみました。来年どうなるでしょうか?消えるか、残るか。さあてお楽しみ。
 
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増やしたかったグラウンドカバー用の白い花が群れています。
 
 
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イギリスの高原を代表するワイルドフラワー、シャスターデージーが咲いてきました。英語名オックス アイ・デイジー (Ox-eye daisy)。Wikiに良い説明がある。風に群落で揺れる様はいいですね。
 

 
シクラメンの改良などで知られるアメリカの著名な育種家ルーサー・バーバンクが1901年に発表した観賞用植物。交配親はマキシマム C. maximum や、英語名をオックスアイ・デイジー (Ox-eye daisy) ともいうフランスギク C. vulgare で、その後さらに日本のハマギク Nipponanthemum nipponicum = C. nipponicum などとも交配がされ、改良が続けられた。名称は、アメリカ・カリフォルニア州にあるシャスタ山にちなんだものである。

 
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特徴や育て方は次の動画で研究して下さい。とても興味深い数学的な形の秘密がありますよ。
 
 
 Plant portrait - Oxeye daisy (Leucanthemum vulgare)
 
https://www.youtube.com/watch?v=rIJdTKMG4FM
 
 
 

 
 これは何でしたか?ホスタ(キボウシ)ですか。
 
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独協大、15年度から法科大学院の募集停止

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独協大、15年度から法科大学院の募集停止 県内事実上ゼロに
 
2014年6月18日(水) 埼玉新聞
 
模擬裁判などができるキャンパス内の法廷教室=草加市学園町の独協大法科大学院(同大提供)
 
 独協大(草加市)は17日、法科大学院の学生募集を2015年度から停止すると発表した。
 
全国的に法科大学院の入学志願者が減少する中で、同大学院でも厳しい状況が続いていた。
 
県内では大宮法科大学院(さいたま市)が13年度から学生募集を停止、桐蔭横浜法科大学院(横浜市)に統合されており、埼玉の法科大学院は事実上ゼロになる。
 
 文部科学省によると、廃止を含めた募集停止は全国19例目。独協大の犬井正学長は
 
「将来の見通しを確保できない状況となり、苦渋の決断に至った」
 
とコメントを出した。
 
 独協大法科大学院は04年、草加市の独協大キャンパス内に開設。模擬裁判ができる法廷教室や自習室、教室などが設けられている。
 
 13年度までに264人が修了し、うち42人が司法試験に合格。弁護士など38人の法曹資格者を輩出した。
 
 一方、  開校時に772人いた受験者(入学者53人)は、14年度には16人(入学者6人、転入1人)まで減少
 
開校時に約50人だった定員は3度変更、14年度は18人に減らした。11年は11人いた司法試験の合格者も昨年は4人だった。
 
 現在21人いる学生全員が修了するまで授業を続け、修了後5年間は学生を支援するという。独協大は同大学院の廃止は明言していない。
 
 07年、同大学院の関連機関として松原団地駅前に「独協大学地域と子どもリーガルサービスセンター」を開設。併設の法律事務所と連携しつつ、相談員が無料で相談を受け付けている。
 
 また、同大学院の必修科目で、学生が市の法律相談に弁護士と陪席する機会が設けられ、通常の相談よりも所要時間が長いことから、市民から好評だったという。
 
 独協大は
 
「学生が陪席する法律相談はなくなると思うが、サービスセンターは新たな形で維持できるよう検討している」
 
としている。
 
■法科大学院
 
 法曹(裁判官・検事・弁護士)を養成する専門職大学院で、2004年4月にスタート。修了すれば新司法試験の受験資格を得られる。文部科学省によると、全国に国公立、私立合わせて74校に設置されたが、独協学園(草加市)が10年に姫路独協大法科大学院(兵庫県)の学生募集を停止する方針を決定。全国でこれまで18校が学生募集を停止した。
 

自然農法の難しさ(1) 直感と悟り

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先日、Kidsらと農地で草刈りをしていると、いつもの犬連れの御仁が来た。
 
私は種まきも苗つくりも今年から本格的にしているので(化学研究を遥かに超えた超忙しさに困惑!)、化学肥料も少々使っている。燕麦やクロバーなども植えている。出来れば果樹や鶏や牛や馬や羊も飼育したい。農業を自然環境の中でエネルギーのフローとして捉えたいのである。
 
今年は果樹に毛虫が多いので農薬散布をしようと決めていたが、木の高さがあまり高くないのでリンゴとプラムと栗は竹の竿でたたいて落としている。
 
その散歩の方は耕さない、無肥料、無農薬という福岡流自然農法の実践を行なっているらしい。しかし、作物を収穫するということは地中の元素と太陽エネルギーの収奪でもある。
 
必ず、不足分を入れなければならないのでは?と質問してみた。無肥料に関しては雑草を土に入れている。無農薬に関しては自家製の唐辛子+酢で対応という。
 
福島さんの本は読んでいないが福島農法でも鶏糞や殺菌剤や殺虫剤は使っているらしい。
 
とにかくどんなに立派な自然農法でも、真似をしても無駄である。自分で自分の道を探すしか手はないのである。自分で観察し自分で作務するしかない。長い化学の研究で既に分かっていることである。芭蕉もそれを知っていた。
 
許六離別の詞にあるように
 
「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」
 
である。

福岡農法における「直観」
 
「直観」による認識とはどういうことか
 
netwave.or.jp/~n-keizo/fukuoka5
 
福岡正信は、真理は科学的認識ではなく、「直観」によって、あるいは「悟り」によって獲得されると繰り返し述べた。
 
「直観」によって真理を認識するとは一体どういうことなのか。私には、これがなかなか理解できなかった。もし、このことがよく理解できている人が自然農法に取り組めば、易々と成功するに違いない。私はこのテーマを20年程考え続けた。

「直観」とは思惟すなわち思考によらずに対象をとらえる、ということである。私は福岡正信の著作を読むまで、あれこれ考えるということ、思惟・思考こそが真理を捉え、対象を捉える道だと考えていたので、福岡正信が「直観によってとらえよ」と言うのに対して
 
「思考なしに、一体どうやって対象をつかまえるのか」という疑問が頭から離れなかった。そして、野菜作りを始めても10年ほどは、「直観によって捉える」ということの糸口さえもつかまえることが出来なかった。
 
直観と勘の区別もよくつかなかった。これは、ごく最近までそうであった。
 
ところが、青森のリンゴ農家・木村秋則氏のドキュメント「奇跡のリンゴ」を読み、福岡正信と共通点があることを見い出して、この問題にひとつの答えがでてきたように思い始めた。また、NHKの番組「プロフェッショナル」で埼玉県の有機農法家金子美登氏のドキュメントを見て、またも共通点を見出したのである。
 
福岡正信は若い頃横浜税関の植物検査課に勤め、植物病理学の研究をしていて、個人的生活も含めて多忙の中で心身の疲労が積もり、急性肺炎を起し、寒々とした病室で「死の恐怖」に直面する。
 
精神分裂症一歩手前のようになって院外をさまよい、戸外に出て寝ているのか、醒めているのか分からないような精神状態になっていた時、ゴイサギの鳴き声を聞いた瞬間に、
 
「自分の中でモヤモヤしていた、あらゆる混迷の霧というようなものが、吹っ飛んでしまったような気がした」

「そして、私は、ただ一つのことがわかったような気がしました。・・・『この世には何もないじゃないか』ということだった」
 
(福岡正信、「わら一本の革命」)という。そして、これを契機に自然農法へと向かうのである。
 
リンゴ農家・木村秋則氏は福岡正信の自然農法に触発されて、当時絶対不可能と言われていたリンゴの無農薬栽培に挑戦し、何年も成功せず、困窮と精神的疲労からついに自殺をしようと岩木山山中を彷徨い、死に場所を決めて首をつるロープを木の枝にかけようとして投げたところ、ロープはあらぬ方向へ飛んだ。
 
「この期になってもへまをする。なんてだめな男なんだと思いながら、ロープを拾いに山の斜面を降りかけて木村は異様なものを目にする。月の光の下に、リンゴの木があった。まるで魔法の木のように、そのリンゴの木は輝いていた。」
 
(「奇跡のリンゴ」、石川拓治著)
 
実はこの木はリンゴではなく椎の木だったが、自殺しようとしていた木村氏は、その木に駆け寄り、
 
「なぜ農薬をかけていないのに、この木はこんな葉をつけているのか」
 
と自問する。そして
 
「6年の間、探し続けた答えが目の前にあった。この椎の木だけではない。森の木々は、農薬など必要としていないのだ。」
 
(同上)ということに気がつく。
 
埼玉の金子美登氏は農家に生まれ、農業を引き継ぎ、有機農業を目指すが、6年の間成功せず、人々には変人扱いされ、諦めて別の職を探そうとしていた。その時、作家の有吉佐和子氏から電話があり窮状を知られて、「野菜を買おう」と言われ、再び有機農業に取り組みはじめた。
 
この3人に共通するのは、
 
「生きるか、死ぬか」
「農業を続けるか、やめるか」
 
というほどの精神的なダメージを受けて、ぎりぎりの瞬間に転機が訪れ、それまでの思考とキッパリたもとを分かつのだ。そして、ひたすら自然を、作物を自分の目で観察するようになる。
 
その観察は自分や他人の考えを持ち込んで解釈することをやめ、ひたすら観察するのである。自分が求める答えは自然の中にあったのだ。
 
私は、いま野菜栽培を始めて22年目、無農薬、無化学肥料で12年目になる。私も無農薬でできるようになった年の直前には、
 
「やっぱり無農薬ではだめなのか」
 
という思いになっていた。実際に農薬を使っていたし、無農薬での栽培は99.9パーセント諦め結論を出すつもりでいた。
 
しかし、私は三氏とは違い「生きるか、死ぬか」というような精神状況からははるか遠くにいた。私は農業を職業としていなかったから、生活も精神も追い詰められることが無かったのだ。私には、野菜作りは趣味の領域にあり、職業ではなかった。しかし本当のところは、いつも本当の百姓になりたいと思っていた。
 
平成元年に東京からUターンし、55歳になる頃まで、ずっと本物の百姓になりたいと夢見ていたのだ。50歳ころには無農薬でできるようにはなったが、だんだん後がなくなってきて、会社勤めと同様の収入の確保は難しくなり、百姓の夢は消えた。
 
夢を実現しなかったことの悔いはない。ずっと夢を抱いていたから、会社勤めに腰をすえて勤めることが出来た。定年まで19年半、全く同じ仕事を同じポジションで続けることが出来た。19年半、私はいやな仕事をしなかった。昇進も拒んだが、仕事を取り上げられはしなかった。
 
そういうわけで、私には3氏のような劇的な転機はない。ないが、転機が訪れてからの3氏のやり方は、私にもわかる気がする。
 
福岡正信や木村秋則氏は自然を思惟によって、あるいは科学的研究によって捉えようとすることを止め、ひたすら自然を観察し、そこから学んだのである。福岡正信には科学的研究の素養が十分にありながらである。
 
私には、科学的研究の素養は備わっていない。それでも、野菜の栽培は取り組み始めた頃からすれば格段の進歩を遂げたと思っている。作柄は非常に安定してきた。自分でいうのもなんだが、今では近隣の農家の人からも褒められる。
 
私の野菜栽培には、科学的根拠はない。科学的根拠があるということの意味は何かというと、
 
「誰がやってみても同じ結果がでる」、
 
という再現性である。ある理論について、誰かが、繰り返し試してみても、同じ結果を引き出せるということが科学的真理として認められる上で必要である。たとえば、水素と酸素を化合すれば水になる、というのは誰が試みても同じ結果になる。
 
試した人や、その時々で結果が異なるというのでは、科学的真理とはみなされない。
私は、知人やメールを貰った人に質問されて、こうすればこうなるということを話すことがある。ところが、その人は「あまり効果は無かった」と言ったりする。これでは、再現性が乏しく、科学的根拠があるとは言えず、誰もが認める話にはならない。しかし、私は自分でやっている分には十分正しいと思っている。
 
実は、この「再現性が乏しい」というのは、「直観」が捉える「認識」の本質なのだ。先ほど、引用した哲学辞典にもあるように、「直観」こそが真の認識を与えるという立場は「神秘主義者」とみなされることが多い。神秘主義者は宗教家に多く、時に熱心な信者を獲得することもあるが、誰もができるわけではない「からくり」のようなものを使うと思われたり、何か裏があるとか、いかさまをやっていると思われることもある。
私に知人が自分も野菜つくりをしたいといって、畑を見学しに来たとき、
 
「牡蠣ガラの粉末を土に混ぜると土が軟らかくなる」
 
と言ったことがある。1年経って知人は
 
「自分の畑で試してみたが、効果が無かった」
 
と言った。彼がそのように認識したのはその通りであろう。別に彼が嘘を言っているわけではない。しかし、私も嘘を言ったわけではない。自分の畑で何度も経験している。では、なぜ知人の場合は「効果が無かった」ということになったのだろうか。
 
試してみた土が私の畑とはかなり違ったものだったかも知れない。あるいは、撒いた量が非常に少なかったかも知れない。また、実際には柔らかくなっていたが柔らかさを客観的に測っていないので、正しく認識されなかったのかも知れない。あるいはまた、牡蠣ガラの粉末を撒く必要のない畑だったのかも知れない。
 
だが、私と知人との違いは、自然観察の有り様が全然違うのである。私は自分の繰り返しの観察と経験で物を言っている。知人は他人から聞いたことをやってみて物を言っているのである。
 
私も福岡正信が書いていることを試してみて、
 
「効果がない」
「無駄だ」
「違うんじゃないか」
 
と思ったことや、今も思っていることは色々有る。
 
木村秋則氏は福岡正信の著書に触発されてリンゴの無農薬栽培に取り組んだにもかかわらず、6年の間何の収穫も得られず、終には自殺しようとした。
 
彼が繰り返し、福岡の本を読み返したにもかかわらず。
 
金子美登氏は農業学校の師に影響を受けて有機農業に取り組んだが、やはり6年間、生活と精神的な窮状に直面した。
 
いずれにしても、先人が言ったことを理解するということは易々と出来ることではないのである。
 

自然農法の難しさ(2)観察の重要さ

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まさしく自分の目で自然を観察し、自分の頭で理解し、自分で作物に関わることが不可欠なのである。特にファーブルのような詳細な観察が重要。

では、どうすればよいのか。
 
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自然農法や有機農法によって作物の栽培に取り組むということは、誰かのテキストにしたがって栽培するということではないのである。
 
誰かのテキスト、誰かが作ったマニュアルにしたがって作物を作りたいのであれば、科学的研究の成果の上で作られたマニュアルに従えば良いのである。
 
自然農法や有機農法によって栽培しようと思うのなら、
 
(1)先人の教えを仰ぎ、著作から学びながらも、そこから離れて、
(2)自分の目で自然を観察し、自分の頭で理解し、
(3)自分で作物に関わることが不可欠
 
なのである。先人の研究や書物から理論を学び、それに基づいて作物に向かっても、それだけでは出来るようにはならないのだ。
 
概念・判断・推理などによって構成される思惟作用によって捉えられる事柄ならば、先人の教えを仰ぎ、書物を読むことで足りるとも言えよう。しかし、「精神が対象を直接に知的に把握する」ということが「直観」であるならば、「直観」には他人の思惟作用が入り込む余地はない。精神は各個人の中にしかないのだから、他人の教えを仰ぎながらも、自分でつかむ以外に直観でとらえる道はないわけである。
 
では、先人の研究や書物から理論を学び、それに基づいて作物に向かっても、それだけでは出来るようにはならないとはどういう訳か。
 
作物を畑で栽培するということは、実験室で理論を検証しているのとは全く違うことだからである。
 
実験室では、先人と同じ環境を整えて、理論を検証するための実験を行うことができる。しかし、百姓が実際に畑の中で作物に対峙する時には環境は複雑で理論が構築された環境とはぜんぜん違ったものにならざるを得ないのである。
 
仮に発芽の条件についてとりあげてみよう。種子の発芽には3つの条件が揃わなければならないと言われている
 
水と酸素と適当な温度とである。実験室の中でなら、この3つの条件が必要であるという実証は、シャーレの中に種を置き、一つは水分を与えないサンプルを作り、もう一つは密閉された容器の中に水素か何かを入れて燃焼させることによって酸素を取り除いた空気を作り、その中に水を与えたサンプルを置いて発芽を待つ。3つ目は水を与えた種子を0℃以下の冷蔵庫の中において発芽を待つ。4つ目は水を与え常温として20℃くらいのところにおいて発芽を待つ。このようにして、4つ目のサンプルだけが発芽し、他の3つが発芽しなければ、この3つは発芽の条件であることがほぼ確認できる。
 
ところが、実際の畑の中に種を蒔いて3週間ほど経っても発芽が見られなかったとき、何が発芽を妨げた原因であるのかを突き止めることは、初心者で有れば容易ではない。
 
水が足りないと言っても、9月始め頃に蒔く大根とホウレンソウとでは、かなり発芽の様子が違う。大根などはまだ夏のような暑さの中で、乾燥した土に種を蒔いても結構芽を出す。ところが、ホウレンソウは蒔いた後で水をかけた位では発芽しないこともあり、種まきをする前に水に漬けておいてから蒔く人もいる。酸素不足と言っても、種を蒔いて土をかけたとき、酸素が不足しているのかどうかの判断は難しい。適当な温度については種子の入った袋に適温が書かれてはいるが、それ以下の場合やそれ以上の場合必ずしも発芽しないとは限らず、極端な温度でない限り判断は難しい。だが、3週間経っても双葉が見えないとき、その原因が、水、酸素、温度だけに原因があるといいきれる訳ではない。
 
現実には、種子が何らかの理由で死んでいたとか、よく吟味すると虫に食われていたとか、発芽はしたが土に根を下ろすことが出来ず枯れてしまい、発芽しなかったと認識してしまったというようなことがあり得る。さらに種子によっては、この3つの条件の他に満たさなければならない条件があるものもある。たとえばオーストラリアに生えている樹木の種には山火事によって極端な高熱に晒されないと発芽しないものがあるといわれている。そして、発芽はしたが土に根を下ろすことが出来なかった場合には、なぜ根を下ろすことが出来なかったのかについて、その原因を特定することはさらに難しいことになってくる。
 
実験室の中では、原因を特定することが簡単な問題でも、現実の畑の中で原因を特定することは簡単ではない。ましてや、野菜に虫や病気が着く場合、その原因が何であるのかを特定し、その原因を取り除くということになると、戸外から隔離された研究室で行う実験とは全く違う困難がある。研究室の中では、色々なサンプルを作って実験することが可能だが、戸外の畑での実践的な栽培の中では実験の名に値する実験は困難である
 
戸外の畑では、畑によって土の種類や成分、養分が違うし、気候によって温度、湿度の変化がある。虫や病原菌の飛来にも無防御である。日照も違う。使っている畑の栽培歴も違う。だから畑での実際の栽培では、種子が発芽しないとか、病気が発生するとか、虫が着くことの原因を究明するということははなはだ困難である。虫が着く原因を確認するために、仮に青虫が着くキャベツと着かないキャベツのサンプルを畑の中に作れという問題を出されて、一体何人の人が出来るだろうか。虫が着くキャベツと着かないキャベツを確実に作る能力がなければ、虫が着く原因を特定する実験は出来ないのである。虫が着くキャベツと着かないキャベツを確実に作る能力があれば、そもそも実験など不要である。
 
実際の作物栽培では実験は不可能ではないにしても、大変困難なことである。
 
しかし、実験の困難なところでは、観察というやり方が有効である。
 
実験と観察の大きな違いはどこにあるだろうか。実験は実験者の思惟、思考によってサンプルを作り、予想した結果を検証することである。観察は観察対象の環境とその変化を克明に追い、そこで起こっていることを受け止めることである。実験は実験対象に対して、実験者の考えを持ち込むが、観察は観察者の考えを観察対象に持ち込むことが出来ない。実験は人間の能動的な行為であるが、観察は受動的な行為である。実験は、人があらかじめ何らかの結論を予想ないし期待をして行う行為であるが、観察においては前もっての結論や予想は必要がない。
 
観察においては目の前に繰り広げられる現象をそのまま受け入れるほかはない。そして観察の結果を自分の頭で考え、解釈し、理論化しても正しい理論になるとは限らない。自分の考えや解釈をせずに観察の結果をそのまま受け入れることが肝心である。
 
観察によって直感的に認識したことは作物の栽培において活用することや、認識したことが正しい内容を含んでいるかどうかを検証してみることができる。たとえば、
 
「大根に着く虫は季節によって多さがかわる。」
 
ということを認識したとすれば、虫が沢山着くと思う時期に種を蒔き、また虫が少なくなると思う時期に種を蒔いて、確認してみればよい。
 
観察によって捉えた認識の真偽を確かめるための実験は、実験効果を得られやすいが、観察なしの正しい認識を発見するための実験は、無数のサンプルを作ることが必要になり、無駄な実験を大量にこなさなければならない。熟慮を重ねて作ったサンプルであっても正しい認識にたどり着くことが不可能な場合も度々有る。サンプルの作成はその実験によって正しいものとそうでないものを区別できる結果を期待して作るのであるが、サンプル作成者の頭の中に正しい認識が含まれていない場合には、作られた実験サンプルの中に正しいものがないので、実験は徒労に終わる。
実験には実験設備や道具立てに費用がかかるが、観察の費用は全くかからないか、かかっても極端に少なくてすむ。
 
自然観察とはどういうことかといえば、今目にしている自然現象がどのようにして引き起こされたのか、そして何と関連しているのかを観るということである。そこでは
 
「目前の自然現象には原因があり、その原因は自然の中に存在する」
「さまざまな自然現象は互いに関連し合っている」
 
ということが前提となっている。たとえば一輪の花が目前にあるのは、茎や葉、根の活動の結果であり、茎や葉、根は一粒の種から生じ、根元の土や空気中から養分を取り込んで生長する。一粒の種は一輪の花から生ずる。といったように、目前の現象には原因や関連があるのである。同じく、作物が病気になったり、虫が着いたりするのは、それなりの原因が存在するのであるが、その原因は自然の中にあるのであり、人の心やその外のところにあるのではない。
 
自然現象の因果関係を理解するには、観察することが必要であり、人の思考による解釈ではなく、観察対象からありのままの因果関係を受け取ることだけが必要である。自然現象の因果関係は、観察すればすぐに見えるものばかりではない。なかなかその姿を現さないものもある。
 
私は、アブラナ科の植物に群がる青虫が、どのようにしてキャベツにやってくるのか不思議に思っていたが、その瞬間を確認できるまでに何年も経っていた。その瞬間を見ることで分かってしまえば、なんと言うことはない。ひらひら飛んでいるメスのモンシロチョウが葉にお尻をつけては、その瞬間に卵を産み付けてゆき、その卵が一週間程度で孵化して虫になるのである。どこかで大量に生みつけられた卵が孵化し、虫になって土の上を這ってキャベツの葉にやってくるのではない。
 
しかし、モンシロチョウは一個ずつ卵を産み付けてゆくが、一箇所に大量の卵を生みつけ、そこで孵化した虫があちこちへ分散して行き、被害を拡大してゆくものもいる。
 
また、大根や白菜の幼苗期にハイマダラノメイガの幼虫が沢山着いて、手で取り除いても次から次と出てくるという経験を何度かしたことがあるが、私は未だにこの幼虫がどのようにしてやってくるのか、この目で確認できていない。このような虫の産卵のあり方をつぶさに観察することが出来れば、虫害対策もまた個別の効果的な対処が可能になってくるのである。しかし、この虫がどこからどのようにしてやってくるのか確認ができていなくても、私は、観察を続ける中でこの虫に関して別の認識を得ることができた。
 
それは、種まきの時期によってハイマダラノメイガの幼虫が沢山出てくる場合と、比較的少なくて甚大な被害に至らない場合があることに気がついた。
 
8月の終わりから9月はじめ頃のまだ気温が高い頃に種まきをするとたくさん出てくる。しかし、9月半ば以降になると減ってくるのである。大根の生長は、種まきの時期が早めの方が大きくなるが、虫が着くリスクも大きいのである。私はこのあたりのことを念頭におきながら種まきの時期をきめている。
 
病気が発生するのも、つぶさに観察を続けていけばしだいにその原因や防除の方法が見えてくる。視覚に映るわけではないが、原因や防除方法がわかってくるのである。一例であるが、トマトを栽培していて、3、4年ほど梅雨時になると或る病気に悩まされた。根元に近い葉が黒くただれるように腐っていき、それがだんだん上に向かってひろがり、実まで腐っていくのである。人は疫病だと言っていた。
 
この状態をみていた或るとき、私はトマトの根の近くに生えている草やトマトの葉が混み合っていることに気づき、これが原因ではないかと思った。
 
以前には何年間もこの病気が発生しなかったが、草をとらずに放置しはじめてから発生するようになったのを思い出したからである。
 
そこで、梅雨に入る直前に草取りをし、同時にトマトの下の方の葉を第一果房あたりまで取り除くようにしたのである。これによって私はこの病気から解放された。
 
虫が大量に発生するとか、病気が発生するのは理由や原因がなくて発生するのではなく、これらも自然現象であり、自然現象は結果であって、必ず結果を導く原因があるのである。結果を導く原因はやはり自然の中に見出すことができる。もっともその原因は人為の結果として発生することもあるのではあるが。
 
虫の話をついでにすると、よく食物連鎖、天敵論が持ち出されて、虫が他の虫に退治されるという話がある。バランスのとれた畑では虫が虫を食べることによって虫害が発生しないと言われる。私のこれまでの観察では、白菜についた青虫やヨトウムシがハサミムシに退治されているようだと感じたことは度々あるが、その他の例では確かなものは見た事がない。
 
畑以外では、蟷螂が蝉を捕まえて蝉のお腹を食べているのを見たことがある。小さな虫たちの世界ではあるが、テレビで見るライオンや豹の狩と同じく、凄まじいドラマを見ている気がして、顔を背けたくなった。
 
また、家の軒先にアシナガバチが作った巣をスズメバチが攻撃し、アシナガバチとその巣がスズメバチにガリガリと噛まれて壊れて行くのをみたことがある。噛み殺されたアシナガバチが巣の下に散らばり、怯えて悲しそうな表情で遠くから巣を眺めているアシナガバチもいて、ハチにも感情があるように感じたことがある。虫たちの狩を見た記憶はこれくらいしかない。だから、天敵、食物連鎖については、話しとしてはよく分かる気がするが、
 
実際に現場を見たことはこの程度しかないので、私はハサミムシを見たらそっとしておいてやることと、蟷螂、蜘蛛のように虫を食べる動物を見つけたらそのままにすること以外には、栽培する上で何の考慮もしていない。
 
テントウムシがアブラムシを退治するという話しも、アブラムシの発生は度々あるものの、一度も見たことがない。こういうことを私が言うのは、別に天敵論を否定するつもりで言っているのではない。自分では見た経験があまりないから実践上何の考慮もできない、ということを言っているのである。
 
「作物を栽培する現場では他の人が言っていることが必ずしも、同じように再現されるものではない」
 
ということを言っているのである。だからこそ、自然農法においては、先人の言葉で作物に向かうのではなく、自分の目を通して観察し、その観察によって判断し、対処することが必要だと言っているのである。
 

自然農法の難しさ(3) 非存在・無

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私は「御告げ」と言って向こうからくる言葉を注視している。出来ることはサーフィンのBigWaveのようにただひたすら待つのみである。もちろん実験や観察などはしているが。
 
 
自然観察
 
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自然観察においては、自分の頭を少し回転させれば、次々と疑問が出てきて、その疑問解決のための観察を続けることができる人もいるかも知れないが、私のような鈍感な人間は、たまに「あれっ」と思って「なるほど、そうなのか」とか「なぜだぁ?」と思い始め、その答えを見つけ出すのに数年かかるということがある。
 
野菜栽培を始めた1年目に完全な不耕起、無除草、無農薬、無肥料でびっくりするほどよくできたキュウリが、同じ畑で翌年は散々な結果になったのは何故か、という疑問の答えは21年経った今でも出ていない。
 
この答えが出てくれば、私の農法に関する興味は終わる。
 
たまに、「あれっ」と思うことは、普段疑問に思っていたことの答えを見つけたときでもあり、また、新たな疑問の始まりであったりもする。だが、なぜ「あれっ」なのか。
「あれっ」と思うのは、意外性である。その瞬間まで自分の頭の中になかったことが、突然目の前に現れる時である。
 
自分の意識の中に全くなかったもの、つまり自分にとって存在していなかったものが、ひょっこり現れて、現れた瞬間に確固とした存在になってしまうことである。第3者や、神の目にはしっかりと映っている存在であっても、私が意識していないものは、私にとっては非存在であり、無である。
 
この非存在・無を私が意識する瞬間がある。この非存在・無が私に意識されて存在になる。
 
私が意識して存在になる瞬間が直観である。私によって意識されていない或る事実、つまり、私にとって非存在であるものは、私がいくら頭を廻らせ、論理的に思考を進めても、その思考の中には決してその姿を現すことがない。
 
私の意識の外にあって、それを私が意識する瞬間が直観であり、この直観によって存在と認めた時が私の「発見」である。私の中で一度発見されたものは、私の思考の中で繰り返し顔を出す。
 
しかし、私が意識したことのない事実、私に発見されていない事実は、私が100万回頭を廻らせても、私の思考の中でその顔を出すことはない。
 
だからこそ、自然を認識するということは、概念、判断、推論といった思考によって導かれるものではなく、まさしく直観によってのみ可能となるのである。概念、判断、推論といった思考(思惟)が幅を利かせるのは、直観が掴み取った内容の吟味をする時である。直観の中身を整理するときである。
 
私の思考は、自分が意識したことの無いものを見つけ出すことはないが、「予想」を導くことはある。この予想は新たな観察か、実験によって確認されることもあるが、いつまで経っても確認出来ないこともある。
 
先ほど述べたように、「あれっ」と思うのは、普段疑問に思っていたことの答えを見つけたときでもあり、また、新たな疑問の始まりの時でもある。人間の思考・思惟に信頼をおく人は、この新しい事実の認識をすると、しばらくの感動の後、しだいに頭を廻らせ始める。普段抱えている疑問の答えを見出したと思うときは、それを一般化する言葉・命題にしようとする。理論化しようとするのである。
 
そして又、新たな疑問の始まりの時には、問題点を整理し、分析しながらその答えをあれこれと考え始めるのである。「あれっ」と思って、今まで自分の頭の中になかったことを意識すると、人はあれこれと思考を始めるのである。
 
そして、自分なりの結論を出し、次の実験・実践において検証しようとするのである。この検証において、自分の結論が正しいと確信できる場合もあるが、出来ないときもある。正しいと確信できた場合には、実践の場でその理論を繰り返し使用するのであるが、反対に確信できなかった場合には、新たな疑問を抱え、悩み始めるのである。
 
だが、人間の思考・思惟に重きを置かない人もあり、そのような人は、自分の直観のまま動く。普段疑問に思っていたことの答えが見つかったときには、それで「良し」とし、「あれっ」と疑問が生じた時には、疑問を抱えたまま時を過ごして、いつか「あれっ、まぁ」と答えを見出すのである。
 
人間が、真理に近づくということは、「既に自分の頭の中にあること」をあれこれと組み合わせてみることではなく、自分の頭の中、自分の意識、自分の認識の中には無いことが、前触れも無く突然、自分の頭、自分の意識、自分の認識の中に生ずるということである。
 
これは、自分の思考によっては決して実現されることはないのであり、誰かの働きかけによって認識させられるか、あるいは自分の直観によって捉える以外にはなく、認識する自分は常に受身の立場、受動的立場でしかない。
 
「チャンスの神様には前髪しかない」という言葉があるが、認識するチャンスは向こうから自分に向かってやってくる。向かい合った瞬間に直観によって捉えた者は、あらたな認識を獲得できるが、漫然と構えて直観を働かすことの出来ない者には、つかまえるチャンスはもう遠くへ去っている。
 
人間が、真理に近づくこと、新たな認識を獲得することは常に受身であるといっても、ただひたすら受身で、何も考えずに待っている人間には、決してその時がやってくることはない。
 
明確な疑問、明確な問題意識を抱えている人間のところに新たな認識、真理はやってくるのである。疑問も無く、問題意識も無い者は、自然がその姿を現しても、そこに何も見ることがない。
 
蜘蛛が獲物を確保するために糸で網を張っておくように、漁師が魚を取るために釣り針を垂らしておくとか、網を張っておくように、新たな認識に巡り会いたく思うものは、自らの思考によって網を張っておかねばならない
 
すると、チャンスはその日に来るか、3日後になるか、あるいは5年後、10年後になるか分からないが、時が満ちればひょっこり顔を出してくるものなのだ。もちろん、その人の生きてる内にはやって来ないこともしばしばではあるけれども。
 
個々の人間の意識は、知覚、感覚、記憶、思考、言葉、表象、感情といったもので構成されているが、意識の表面に出てきているのは、常に意識の一部である。意識を構成する知覚、感覚、記憶、思考、言葉、表象、感情のほとんどは通常は脳の中の格納庫に収まっている。ものを考えたり、判断するときにはそれらを格納庫から取り出してきて、考え、判断を下すのである。人が思考するときはこの格納庫の中にあるものだけを使って思考しているのである。
 
各個人の意識の中に存在するものは、いかに博学、経験豊富な人の頭脳であっても、世界全体、宇宙全体の存在に比べれば無限に少ないと言って差し支えない。
 
各個人に限っていえば、その人の意識のどこにもなかったものが新たに意識されることは、その人にとって大きな「発見」である。だから、発見は常に直観とともにあるのである。一個人にとっては大きな発見であっても、人類全体を見渡してみれば、同じ内容について既に他の誰かに意識されていることは無限にある。だから、自分が大きな発見をしたと狂喜乱舞してみても、実は既に他の人が発見していたということは普通にあることである。自分がただ無知であっただけである。
 
人類全体の意識の内に、どこにも、だれにも見当たらなかった新しい意識を生み出したものこそが人類にとっての新しい「発見」である。人類がはじめて発見したものは、しばしば人類の歴史を変える偉大な力を持つが、無知無学ゆえ、「おれが発見した」と勘違いする陳腐な発見であっても、その人個人の人生を変える力がある。
ここまで、「直観」について、「その人の意識の中に存在しなかったことが意識される瞬間」という観点で論じてきた。だが、「直観」はもう一つの意味を持っている。
 
「これまで意識されたことが無いもの」が新たに認識されるのではないが、時事刻々、生起してくる情報に対して判断を下していく働きとしての直観である。人は新しい情報を得て、判断するときに思考して、つまり、よく考えてから判断を下すことも多いのであるが、思考という経路を通らずに判断を下すことも普段にあるのである。感覚や言葉を通して受け取る情報に対して、思考することなく判断を下していくということが人にはあるわけである。思考・思惟による判断ではなく、直観による判断である。たとえば、車を運転するときに、初心者は信号や道路の状況を目で見て、考えてからハンドルやペダルの操作をするのであるが、慣れた運転手は考えることなく、ハンドルやペダルを操作しているのである。この運転手は考えて判断するのではなく、直観によって判断しているのである。熟練したものは、考えながら運転する方がかえって恐くなるものである。熟練者は信号や道路の状況を見落としはしないが、信号や道路の状況について考えるより、むしろ運転とは関係のない事を考えていることが多い。「判断」する「直観」は思考を省略しているから論理的な判断ではないが、繰り返し経験したことに基づく「熟練」の判断であるから、間違いはほとんどないのである。このように、人の判断には思考による判断と、直観による判断があり、時によって使い分けられているのである。このような直観による判断が可能なのは、熟練しているからである。
 
人が思考を経ないで判断したり、行動したりすることは失敗すると「よく考えてやれっ」などと罵声を浴びることにもなるが、熟練によって思考を経ずに判断し、行動できるようになることは実は理想的な判断であり、行動である。たとえば、人は話しをするときに言葉を使って話すのであるが、普通は自分が使う言葉の意味を考え考えして話すのではない。言葉の意味をいちいち思考を通してから話していたのでは話しにならない。初めて聞く言葉、初めて使う言葉は、その意味を考えながら聞き、話さなければならないが、なれた言葉を聴き、なれた言葉を使うときはその意味を考えることなく、聞き取り、話すことができる。多くの経験をし、熟練して深い理解をした言葉を使うときには言葉の意味を考えながら使う必要はないのであり、直観のままで聞き、話すのである。
 
こうして、「直観」には「今まで認識していなかったことの認識」と「思考を省略した判断」という役割があることが確認できると思う。そして、直観は思考と共に人間誰しも、日常普段に行使していることなのである。
 
次に、直観によって認識された内容を、人はいかにして他人に伝えることが出来るかという問題に移りたい。この問題は実は、この稿の始めの問題に再び立ち戻るということでもある。
 
人は誰でも、自分が新たに認識した事柄について、人に伝えたいという衝動を持っているし(隠しておきたいという衝動もあるが)、また自分が下した判断について、他人に説明しなければならない時がある。人は自分が「発見した」と思う事柄を、人々の役にたつことと思えば、それを伝えたいと思うのは当然であろう。また、自分が下した判断について他人が疑義を唱えるような場合にはとくに説明が求められる。つまり、自分の直観の中身を他人に伝えなければならない時があるということである。この直観の中身、内容を他人に伝える場合、「直観」の形式のままでは伝えることは不可能である。直観はその人の頭の中にしかない。他人に伝えるためには、何かを媒介にして伝えなければならないのである。たとえば、仕草とか言葉、音、絵などの媒介によって伝えることが必要なのである。媒介するものが無ければ、他人には決して伝わらない。しかし、仕草や言葉、音、絵などを媒介として伝えれば、正確に伝わるのかどうか、といえば、必ずしも伝えきることが出来るわけではない。一般によく使われる言葉を使って伝えようとすれば、伝える側の人間が自分の直観の中身を正確に表す言葉を選ばなければならないが、全く新しい認識、新しい発見である場合には、そのことを表す言葉は見当たらないのが常である。言葉が無ければ、造語するしかない。新しい言葉を作るとすれば、その新しい言葉の定義をする必要がある。言葉の定義とは、「定義されようとする言葉」の意味を「よく知られた言葉」で規定すること、あるいは置き換えることである。しかし、新しい言葉をよく知られた古い言葉で表現しても、新しい言葉の全てを言い尽くせるわけではない。
 
たとえば、いま私が「へなちょこ」という新しい動物を発見した、と言うとしよう。すると人は「へなちょことはどんな動物か」と聞くであろう。すると私が「へなちょこは哺乳類と爬虫類の両方の性質を持っている」と言う。「両方の性質を持っているとはどういうことか」と聞かれる。すると「卵を産むが、孵化した子供に乳を与える」という。すると、「体の格好はどんな具合か」と問われる。「ワニやトカゲのように尻尾があって、4つ足で這い回っている。」と答える。「乳房はどこにあるか」と聞く。「腹の下にある」と答える。
 
「這い回っているとき、乳房はどうなっているか」と聞く。すると「へなちょこは4つ足があり、這い回っても蛇のように腹を地面にすりつけることはなく、後ろ足の少し前に乳房が2つあって体毛に保護されている」と答える。すると「体毛は全身を覆っているのか」と聞く。すると「背中は鱗で覆われ、腹部は毛で覆われている」というように、言葉で説明するということになると、延々と続くのである。そこで、「では、そのへなちょこをここへ持ってきて見せてくれ」といわれる。「いや、ここに持ってくることは出来ない」とでも答えようものなら、もうその話しは作り話だと思われてしまう。だが、持ってきて見せることが出来たなら、人は「へなちょこ」を吟味した上でその発見を「発見」として承認するのである。
 
 ところが、動物のような一つの物体である場合は、それを直接目に触れさせることが出来るので、見せることが出来れば、相手は大体了解することができる。しかし、人間の造る言葉には人の目に触れさせることの出来ないものがある。たとえば、心、神、仏、霊、真、偽、誠、善、悪、法則、定理、原因、結果、幸福、等々。このようなものが存在するかどうかは、人によってかなり異なってくる。
 
「心」が存在することは、五感で捉えることができなくても、ほとんどの人がその存在を認める。自分の中に心が存在していることを直観しているからである。しかし、「神」「仏」ということになるとどうであろうか。神仏の存在を確信している人がいくら言葉を尽くして説明しても、その存在を否定する人はいくらでもいるのである。反対に「神」「仏」を直観する人は、少ない言葉でも受け入れるのである。このように言葉によって説明することは、受け手が自分の実体験をもとに直観するかどうかによって受け入れるか否かが決まるのである。心、神、仏、霊、真、偽、誠、善、悪といった言葉・概念は、自然界の概念と違って実体がないから認める人と認めない人とが出てくるのであって、自然界については実体があるから認める人と認めない人が出てくることはないと、考える人もあるであろう。しかし、自然界についての認識に関しても、様々な説が生まれては消えて行き、人々が認めるものと認めないものとは常に存在するのである。先ほど述べたが、「天敵によって自然のバランスが保たれ病虫害がなくなる」という理論について私は否定する根拠を持たないが、いまだ肯定する程の事実を確認していない。
 
また、私は
 
「健康に育つ野菜には病虫害がつかない、病虫害は不健康な野菜につく」
 
という見解を持っているが、これは物体ではないから人が五感で感じ取ることのできるものではない。神の存在は五感で感じ取ることは出来ないが、その存在を認める人は沢山いる。そして、認めない人もいる。
 
 このように、或る人が直観した内容を他人に伝える場合、五感で捉えることのできないものを言葉だけで伝えることは極めて困難であり、直観の内容が全人類を見渡してみても全く新しい内容である場合、それを他人に理解させることはますます困難なことである。受け手の側に、同様の直観、体験がある場合は容易に伝えられるが、そうでない場合にはなかなか伝わらないのである。五感で捉えられない現象は精神世界、社会現象だけでなく、自然界にも無数にある。たとえば宇宙や地球の誕生の瞬間とか、生命における新種の発生とか、物体としての脳と心の関係とか、人間の通常の感覚だけでは捉えきれない問題は無数にある。そうした問題には常に論争が発生する。「宇宙や地球には誕生があり、それは数十億年前だ」と言われたり、「宇宙はビッグバンで生まれた」などと言われても、われわれの五感で捉えることは出来ない。それらは最初、誰かの頭の中に直観として生まれた意識であり、その「発見」を人に伝えることは大変難しい。
 
同じテーマで研究している科学者同士なら、「発見」の中身を理解してもらうことは容易だろうが、私のようなぼんくらに分からせることは容易ではない。私がそれを理解するには、私自身が彼らと同じ程度の学習と研究を重ねることが必要である。
 
 ここで、釈迦の話しをすると、話しが飛ぶと思われるかも知れないが、あえて釈迦の話しをする。というのは、私の見解では釈迦の話しも科学の話しも農法の話しも同じことだからである。
 
釈迦は長い修行を経て悟りを得た。悟りを得た後、自分の悟りの内容を人に伝えるため、説法をした。しかし、彼は伝えるために説法をしただけではない。彼は弟子を作った。弟子は釈迦と同じように修行をし、そして釈迦の悟りを悟った。釈迦の説法を伝えるための沢山の経典が残されたが、仏教は経典だけではなく、厳しい修行も世代をこえて続けてきたのである。その理由は、言葉だけでは釈迦の悟りが弟子に正確に伝わらないからである。釈迦の悟りとは、釈迦が直観したものである。直観の内容をきちんと伝えるためには、弟子も釈迦同様の修行体験が必要だったのだ。仏教では膨大な経典と厳しい修行が並行して伝えられている。釈迦の直観を人々に伝えるためには、言葉だけでは不可能であり、また修行だけでも不可能だったのである。修行は悟りを得た師となる高僧のもとで行われ、悟りを得た弟子はその師の印可を受けるのである。いくら修行を重ねても、師の印可が無ければ本当の悟りとは認められない。このように仏教では、釈迦の悟りを伝えるために、言葉・経典と修行の両方を残したのである。
 
 新しい直観の中身、新しい発見、新しい見解、新しい概念を人に伝えるためには、言葉で説明することが必要だが、それだけでは伝えることは十分ではなく、受け手の側の体験、修行、実験、直観といったことが必要であり、それを求めたのである。
 
「直観による認識とはなにか」という問題をずっと考え続けていた私は、以上のように理解した。整理すると、直観とは「人がそれまで認識していなかったことを認識した瞬間のまだ思考によってけがれていない認識のことであり、また、新しく生起してくる状況、新しい情報への思考を経ない判断」のことである。そして、直観の内容が人に伝えられるためには、言葉、音、仕草、絵などの媒介が必要であるが、それだけでなく受け手の側の体験、実験、伝え手同様の直観が必要だということである。
 
 このように「直観による認識」を捉えてみると、「直観による認識」とは、特異な認識方法ではなく、人間がごく普通に行っている認識のことであり、何か特別の認識方法であるのではない。むしろ、以前から「思惟・思考が真理を捉え、対象を捉える道だ」と考えていた私の考えの方が逆立ちしていたのだ。直観により捉えた内容は実践、実験によって検証されなければならない。そうでないと直観は単なる思い付きになってしまう、という弱点もあるが、新しい認識は直観から始まる。思惟・思考なしには直観の内容は明らかにならず、検証されないが、思惟・思考だけでは単なる妄想でしかない。人の正しい認識のためには、直観と思考・思惟が必要であり、直観偏重、思考・思惟偏重はいずれも誤った認識を引き起こすと言っていいだろう。
 
 次に、福岡正信は「直観」という言葉と「悟り」という言葉を同義の言葉として使っているところがあるのだが、その点について論じてみたい。
 
「直観」と「思考・思惟」が対を成すとすれば「悟り」と対を成すのは「迷い」である。
「迷い」は「人が考えている状態」を示す言葉である。考えることは、あれこれと結論を探すことである。考えている状態からの脱出こそが必要なのであり、脱出できたときが「悟り」である。「迷い」の原因を突き止めた時が「悟り」の時であり、「判断の迷い」を決断によって断ち切った時が「悟り」である。人の日常は「迷い」と「悟り」を繰り返しているのである。それは、「直観」と「思考・思惟」を繰り返しているのと同じことである。
 
 人は話しをするときに、使い慣れた言葉を使うときにはその言葉の意味を考えずに使い、使いなれていない言葉を使うときにはその言葉の意味を考えながら口にする。人が考えながら事を進めている時には「迷い」があるのである。「迷い」ながら話している人の話は他人には伝わりにくいか、伝わらない。何をするにも「迷い」の経験なしの「悟り」はないが、迷いはいつか断ち切ることができなければ「悟り」はない。何かの習い事をする場合に、あれこれ考えながらやる人もいるが、考えることなくひたすら練習に励み、体に直接覚えこませる人もいる。頭で覚えるのではなく、体で覚え、手で覚えるのである。初心者が自転車に乗ったとき、操作を考えながらハンドルを握る人は転倒する。しかし、考えることをやめ、体でバランスをとることを覚えたものは転倒しない。頭は他の事を考えていても転倒しないのである。体で覚えることは頭で覚えることより優れているのである。覚える機能は脳にあるだけで無く、体にもある。そして、体で覚えることを担っているのが直観である。自転車に乗ってバランスをとることを一度おぼえた者は、大きなアクシデントを除けばもはや転倒することは無く、高齢になっても体が正常に機能する限り忘れることはない。これは、バランスのとり方を「悟った」ということであり、本当に理解したということである。
 
「悟る」というのは、頭で覚えるのではなく、手で覚える、体で覚えるということと同じことである。仏教の修行者たちが肉体に大きな負担をかけながら修行しているのは、体得するためである。
 
 福岡正信が、自然農法を「悟り」として捉えていたのは、自然の営みを捉える上で「思考」に主導権を渡さず、「直観」によって捉え、「体得」することこそが肝要だと思っていたからである。彼は、作物の様子を「直観」によって捉えなければならないといったが、農業の初心者が「直観」で作物の様子を捉え、判断することは無理である。「直観」によって捉え、判断することが出来るのは「体得」しえた者だけである。
自然農法を体得するには、直観を主として、思考を従とし、己の体を作物(植物)に馴染ませる修行が必要なのだ。僧の修行に終わりがないのと同様、自然農法に修行の終わりはない。
 
 私の世代は、学校で「悟り」の教育をほとんど受けていない。教師の口から「悟りなさい」という言葉は聴いた覚えがない。聞いたのはいつも「考えなさい」だった。考えることは「迷い」である。私たちはずっと「迷い」の教育を受けてきたのだ。いつも「迷いなさい」と言われ続けてきたのである。「迷い」も「悟り」への入り口ではあるが、「迷い」は「悟り」へと続かなければならない。
 
幕末に廃仏毀釈の嵐が吹き、悟りの仏教は明治政府から排除された。戦後は宗教教育が排除され、宗教的臭いのする「悟り」は教育から消えた。
 
学校教育は「迷い」の思考力と記憶力が優先されるペーパーテストの世界になってしまったのだ。
 
「直観と思考・思惟」を「悟りと迷い」の関係に置き換えてみると、仏教者の教えがよく理解できるように思われる。
 
私は「迷い」の教育から自ら抜け出すのに21年を要し、還暦になっていた。
 
(2010.02.17)

松山高生物部のメダカ研究論文、Genomeに掲載

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理研の笹井、小保方さんらよりも立派!大学院生も顔負け。

松山高生物部のメダカ研究論文、国際学術誌に掲載
 
2014年6月19日(木)  埼玉新聞
 
東松山市の県立松山高校(安齊敏雄校長)の生物部メダカ班の研究論文が、今月発売の国際学術誌「Genome(ゲノム)」に掲載されることになった。
 
イメージ 1 論文作成に関わったのは、今年3月に同校を卒業した渡辺耕平さん(18)、古賀源さん(18)、中村航大さん(18)。
 
3人は、アルビノ(白化個体)メダカの中から全身が黒いメダカが生まれたことに着目。染色体上を動く遺伝子「トランスポゾン」が、生殖細胞でも転移することを確認したという。
 
 3人は1年生から研究に取り組み、2年生の時にまとめた「アルビノメダカの原因遺伝子同定」が、日本学生科学賞高校の部で内閣総理大臣賞を受賞した。
 
 その論文を京都大学霊長類研究所の古賀章彦教授に送ったところ、
 
「正確な実験を追加、研究すれば学術論文になる」
 
と勧められた。3人は受験勉強と並行して、3年生の秋まで研究に取り組んだという。
 
 論文には3人と、指導助言した古賀教授、宇都宮大学バイオサイエンス教育研究センターの松田勝准教授、生物部顧問の服部明正教諭、藤田暁子教諭も共同研究者に名を連ねている。
 
 渡辺さんと古賀さんは14日、理数系の3年生が研究内容を英語で発表する「スーパー・サイエンス・ハイスクール発表会」に特別参加、論文の内容を解説した。
 
 渡辺さんは
 
「まだ実感はないが、うれしいです。受験勉強もあったが、遊ばずに頑張ったかいがあった」、
 
古賀さんは
 
「運が良かった。古賀先生らの協力があったから。メダカと先生に感謝です」
 
と笑みを浮かべた。
 
 顧問の服部教諭は
 
「大学院生でも国際誌に出すのは難しいのにすごいと思う。3人が2年以上取り組んだ努力、頑張った結果だ」
 
と称賛。安齊校長も
 
「夏休みも正月も水の管理で登校していた3人の地道な努力、研究が評価されてうれしい」
 
と話した。
 
lifesciencedb.jp/houkoku/pdf
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IE9でjavaアプレットが作動しない!

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KidsがYouTube動画をKeepVidでDL出来なくなったと騒いでいる。下記の現象らしい。実際には2回で終わっているが無限ループを形成しているという。

使いにくいIE9を止めてGoogleChromeに変えれば良いのではとアドバイスするがIEが慣れているという。
 
IE9でjavaアプレットが作動しない
 
windows7でIE9を使用しています。javaアプレットを使ったページを見ることができません。

「Internet Explorer はこの Web サイトの復元を中止しました。Web サイトに継続して問題が発生している可能性があります。」
 
というエラーメッセージが出ます。64ビットのIE9ではページは開いてもアプレットが作動しません。javaは最新のもの(6 updeate30と6update30(64bit))をインストールしてます。よい対処法はありますでしょうか?
 
投稿日時 - 2012-01-15 15:32:28
 
 複数のJAVAが有効になってませんか?

アドオンの管理で確認して1つづつJAVAを切り替えてみましょう。
 
投稿日時 - 2012-01-15 15:52:32
 
お礼

アドオンの管理でJAVAが1つになるようにしてからJAVAを再インスールしたらアプレットが動きました。
 
投稿日時 - 2012-01-15 17:21:11

大学生に夏休みと部活は必要か?

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大学改革が必要ですね。体育や語学は外注。第2外国語は不要。部活や夏休みなどの長期休暇は廃止。短期の休暇でOK。
 
授業は自動車学校方式で朝から晩まで開講で学生は好きな時間帯に出れば良い。

【経済快説】
 

大学生に夏休みと部活は必要か? 時間とエネルギーのムダ

2014.06.19 GendaiNet 経済評論家・山崎元
 
入試まで勉強をがんばって、大学で羽根を伸ばすというのではもったいない
 
 常々疑問に思っているのだが、日本の大学生に、夏と春の長い休みや部活は必要なのだろうか。
 
 大学の授業料は主に学生に向けた講義と指導の対価と考えるべきだ。ならば、1カ月以上ある夏・春の休みの期間は、大学は手抜きをしているし、学生は時間を有効に使えていない。
 
 仮に、長い休みはなしに勉強して、3年あるいは2年で大学を卒業して就職できるなら、働いて稼ぐことができる期間が1、2年長くなる。
 
吸収力のある若い時分の1年、2年を、仕事を覚えることに使えるのは大きい。2年ないし3年で卒業できる大学、あるいは4年で修士まで終えられる大学があってもいい。
 
 もう一つ無駄だと思うのは、大学生の部活だ。十分な学力のない大学生が、部活に時間とエネルギーを割くことが合理的だとは思えない。
 
 若い頃にスポーツや芸事、社会活動などを修めることが悪いとは思わない。
 
しかし、例えば、勉強よりも野球をやることに意味のある人は、野球に集中する方がいい。学力に余裕がある学生が、部活でも気を吐くのはいいが、むしろ、学力の低い大学の方が部活に力を入れる学生が多い。これは、おかしい。
 
 旅行やスポーツは大学生でなくてもできる。中卒や高卒で働いている人でも、意志と余裕があれば十分やっている。
 
 大学生にだけ、人生の有給休暇的な余裕を与える必然性はない。大事な時期の時間とエネルギーとお金の無駄である。
 
 全大学が全学生に画一的にやる必要はないが、例えば、夏・春の休みの期間には、国語・英語・数学といった基礎科目の学力を補強する授業を学生に提供してはどうか。
 
 就職してから真に役に立つのはこれらの科目の知識を「使いこなす」ことだし、そもそも大学の専門科目の内容を勉強する以前の学力レベルの大学生が少なくない。
 
 大学が学生の将来を思う真のサービス業であろうとするなら、検討に値する選択肢だ。
 
 また、基礎3科目と経済学部ならミクロ経済学とマクロ経済学くらいを合わせた、大学在校生および卒業予定者の全国共通学力テストを実施すると、学力の底上げに役立とう。入試が低偏差値大学の学生でも、卒業前に高評価を得るチャンスができることはフェアだ。企業が就職を希望する学生に受験を要求してもいい。
 
 これまでは、学生を甘やかして、スポンサーである親には
 
「大学を出ないと(子供が)不利だ」
 
と思わせて、生徒を集める大学のビジネス・モデルが機能してきた。
 
しかし、学生、親、そして何より学生の就職先の企業や官庁が大学の提供するサービスの価値を見抜くようになりつつある。大学は、真に学力のある卒業生を能率良く作り出すことに集中してはどうか。 

π-Allylpalladium Intermediates

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Dimerization of Pd(0)-Complexed Alkenylcarbenes Generated from π-Allylpalladium Intermediatesが面白いかな?そしてπ電子系の拡張。
 
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梅雨空に、しばし陽光あり

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梅雨空に、しばし陽光あり

長雨である。しかし陽が少し出ると猛烈に暑くなる。気圧は変化せず停滞している。湿度は70%で高い。Redの除虫菊が美しく咲いてきた。
 
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この花の名は思い出せないが有名なはず。
 
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この花も花屋の女の子に先ほど聞いてきたのだが、メモを紛失してしまった。
 
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これはチャイブ。かわいらしい姿である。
 
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梅雨空であるがしばし光が射す。
 
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シャスターデージーと紫ルピナスの群落。来年も増えて欲しい。
 
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自転車は飾り物と化している。
 
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野生化したロマンカモミールである。来週はどんな姿を見せてくれるのか。
 
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6月中旬の花々

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シャクヤクの花が咲いてきた。咲く前の花芽の蜜をねらってアリが集合するのは困る。
 
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Red除虫菊も満開である。
 
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シャスターデージーの花と比べて見てください。27花弁ありますね。
 
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ピンクの除虫菊Robinsonnです。29花弁。高度な幾何学と化学が具現化されている。花が何なのだと言ったT大教授には永遠に隠されたわからないテーマでしょうね。
 
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黄色のアヤメでしょうか?
 
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花をアップしましょう。ヘッセが幼年時代に魅了された詩的な世界があります。ハチが見えますか?
 
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忘れてはいけません。都忘れの花。
 
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フキも小さな子供の背丈です。塩漬で冬のためにしておくと良いのですが。
 
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アイヌのデンプン源です。オオウバユリ。生態は実にユニークです。確か7年目に芽をだして育ち1週間で生を終える?
 
堂々とした姿でしょう。草刈時には注意しています。群落を作るように努力中。
 
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里に帰るとサクランボの時期でした。
 
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紫の大輪のクレマチスの時期です。
 
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クローズアップ。花ではなくてガクなのだそうです。それにしても美しいですね。
 
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ノルウェイジャンのモコちゃんは外に出れなくて退屈そうです。こんな顔で女の子にモテモテなのです。
 
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液体状のSPERA水素とPtナノ粒子

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「SPERA水素」とは何か?
 
橘川武郎氏によると
 
イメージ 2「原油・天然ガス・石炭から取り出した水素(H2)を水素化プラントでトルエンと反応させて運びやすいMCH(メチルシクロヘキサン、常温・常圧では液体)に変え、それを日本などに運んで脱水素プラントにかけて水素にもどし利用する(その際、脱水素プラントで水素から分離されたトルエンは、水素化プラントへ移されて再利用される)という構想である」
 
という。水素貯蔵合金などは使いにくいのか?
 
この構想のポイントは、MCH化することで
 
「運びやすい水素」
「貯めやすい水素」
 
を実現した点にあり、この「使いやすい水素」を千代田化工建設は、「SPERA(スペラ)水素」と名づけている。
 
SPERAとは、ラテン語で「希望せよ」という意味をもつ言葉だそうだ。「SPERA水素」は、たとえばペットボトル状の容器に入れることも可能であり、使い勝手がいい「SPERA水素」が普及すれば、水素を活用したいという人類の希望は、文字通りかなうことになる。
 
水素のガソリン化ということであるらしい。
 
水素添加をしてして再び脱水素化か?

knak.jp/FYI/h2-hatuden
 
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トルエンの水素化反応
chiyoda-corp.com/technology/files/201301_okada_yasui.pdf
 
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Wiki情報

トルエンの水素化により生じ、触媒による脱水素化で水素を取り出せることから、有機ハイドライドの一種として水素の安定的な貯蔵・輸送手段としての研究もすすめられている。
 
イメージ 6理論上の水素貯蔵密度は47.0kg-H2/m3であり、水素ガスは1/500の体積のMCHとなる。貯蔵密度はベンゼン←→シクロヘキサン(56.0kg-H2/m3)やナフタレン←→デカリン(65.4kg-H2/m3)に比べやや劣るものの、液体の状態を維持できる温度範囲が広い利点を持つ。
 
千代田化工建設はMCHの脱水素触媒を開発し、商業ベースでの水素の供給の実証試験に成功した。日立製作所は国立極地研究所より、南極の昭和基地での風力発電機とメチルシクロヘキサンを組み合わせた水素発電システムを受注した。
 
カギを握るのは水素サプライチェーンの構築
 
gendai.ismedia.jp 
 
今日、経済成長に伴う化石燃料の消費増大による大気汚染や地球温暖化が問題となる中、ハイブリッド車が誕生し、電気自動車の存在も改めて注目されるようになった。そして、燃料電池車の市販開始である。
 
「歴史は繰り返すというが、移動手段の多様化は100年ほど前と同じような状況になっている」
 
(加藤副社長)という。蓄電池技術の進化や、車というメカ(機械)とコンピューター技術の融合など「技術革新」がモビリティーの多様性を加速させている。
 
燃料電池車に限ってみると、燃料となる水素は燃えるために危険であり、気体として管理するのは難しかったが、管理技術が進化したことも市場投入を早めた。
 
たとえば、プラント建設大手の千代田化工建設がノウハウを持つ「SPERA水素」。
 
これは、水素を石油の主成分であるトルエンに溶かすことで、常温常圧でありながら水素を体積ベースで500分の1に圧縮可能とした技術だ。これによって、タンカーやタンクローリなどこれまで利用してきたインフラを活用しながら水素を大量にかつ低コストで輸送することが可能となった。
 
また、このトルエンに溶かした水素は「メチルシクロヘキサン」という液体になるが、従来技術ではこの液体からは水素を取り出せなかったが、触媒などのナノテクノロジーの進化によって取り出しが可能となった。この2つの技術によって、「水素サプライチェーン」が実用化した。
 
 20世紀初め、ガソリンの精製法の進化など周辺産業の発展により、ガソリン車が「主役」となったのと同様に、新しいエネルギー供給のサプライチェーン構築が、燃料電池車普及のカギのひとつになることは間違いないであろう。
 
また、2009年からはガスから水素を取り出す「家庭用燃料電池」の普及が始まり、消費者が「水素」という言葉を目にするようになったことで、水素への抵抗感が減少しているとも見られる。
 
エネルギーは勧善懲悪では決まらない
 
ホンダも燃料電池車の開発に力が入っており、トヨタとほぼ同時期に、航続距離や価格も同様の新型車を国内に投入する計画。すでに昨年秋に開催されたロサンゼルスモーターショーでコンセプトカーを初公開している。
 
政府は今年4月に閣議決定した「エネルギー基本政策」の中で、燃料電池車や水素ステーションの普及を謳っている。資源エネルギー庁燃料電池推進室によると、2017年までに燃料電池の利用拡大を図り、2020年代後半に水素発電を普及させ、2040年ごろに水素供給システムを確立させる計画だという。
 
 当面は、水素を燃料とする燃料電池車も普及すると同時に、内燃機関とモーター併用のハイブリッド車、電気自動車も併存していくと見られる。そして、新技術のモビリティーに対抗するために、ガソリン車やディーゼル車の技術も益々進化していくだろう。
 
ガソリン車やディーゼル車は燃料を燃焼させたエネルギーの半分以上は捨てており、その捨てているエネルギーをいかに有効に利用して燃費効率を高めていくかといった技術開発も重要になる。
 
トヨタやホンダのように資金力があると、全方位的にすべての技術に取り組めるが、財務力の乏しい自動車メーカーは、限られた原資をどこに投入していくかの戦略眼が必要だ。足りない技術を補完し合うための提携も増えるかもしれない。その際に重要なるのは、技術開発力だけを誇るのではなく、その技術が社会や消費者にどのような価値を生み出すのかという点ではないか。
 
 今の日本では東日本大震災を契機にメディアなどでは原子力問題が大きく取り上げられ、その対抗軸として太陽光発電などの自然エネルギーが話題となるケースが多いように映る。しかし、次世代のエネルギーは「社会的にあるいは経済的に何が正しいか」といったような一刀両断的な考え方で決るものではないとも感じる。
 
イメージ先行の勧善懲悪的に決めるものでもない。省エネなど環境負荷低減、エネルギー安全保障、合理性のある産業振興、コスト、関連技術の進歩など様々な要因が複雑に絡み合いながら、最終的には消費者が決めるものではないか。その選択肢の幅を狭くしてはいけない。
 
歴史を振り返り、かつ、燃料電池車という新しいモビリティーの誕生を通じて感じた筆者の率直な感想だ。
 
  「トルエンに結合して水素を固定化する技術は以前から確立済みだった。これまで実用化できなかったのは、MCHに固定した水素を再びガスの形に分離する効率的な技術(脱水素化技術)がなかったからだ」    toshiyam.tumblr.com/post/57702562820/spera
 
 「1980年代にカナダの水力発電でつくった水素を欧州に運ぶ『ユーロケベック計画』で脱水素技術の開発に挑んだが、できなかった。私は2002年に脱水素化の技術を開発しろと命じられ、ほぼ10年をかけて実用レベルの技術を開発できた。ちなみにスペラはラテン語で『希望せよ』という意味だ」
 
 ――脱水素化反応の触媒が開発のポイントですか。
 
 「従来の脱水素化触媒は寿命が課題で、2~3日で使えなくなった。私たちが開発した触媒は1年(8000時間以上)は十分使える。白金の触媒で、自動車排ガス浄化用触媒と同じく、劣化したら回収して再利用が可能だ。初期投資はやや高いかもしれないが、運転コストは安い触媒だ」
 
 「白金の粒子をおよそ1ナノ(ナノは10億分の1)メートルまで小さくし、(触媒反応の土台になる)アルミナの上に均一に分散させてつけた
 
MCHの分子の大きさは0.6ナノメートルくらいなので、白金粒子はほぼ分子と同じサイズだ。まさにナノサイズの触媒技術で、世界でもほかに例がないと思う」
 
 「触媒にはこのほかにもいくつか工夫がしてある。基本的な構造は論文などで公表したが、容易にはまねはできないはずだ」

ハイドライド法の熱力学

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面倒な計算ですが大学院入試には良いのでは?却下かな?
 
ハイドライド法

   itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1306/04/news064
 
無機物、つまりカルシウムやマグネシウムなどの金属に加える方法の他、有機物に加える方法もある。
 
有機物を使った有機ハイドライド法は、重量当たりの水素密度で見ると水素吸蔵合金よりも良いが、無機ハイドライドよりも低い位置にある。
 
体積当たりの水素密度では他の手法よりもいくぶん劣る。
 
しかし、大量貯蔵、大量輸送を前提にすると、密度に劣ることよりも液体として貯蔵、輸送できることが重要だ。信頼性・安全性も高くできることから有望視されてきた。
 
 有機ハイドライドの課題は反応が遅いことだ。有機物に水素を加える反応はよいものの、有機物から水素を取り出す反応が遅い。ここに革新を加えたのが千代田化工建設だ。
 
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以下は退屈な計算式
 
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supramolecular四角形

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藤田さんが千葉大助手の頃のアイディアには驚いたものです。未だに後を追う研究者が多い。アメリカのStangなども。
 
下記の論文では4,4'-BipyはYtに配位しているものと草でないものとN(4,4'-bipy)-H(H2O)の分子間水素結合かな?
 
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