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自己を運びて

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冬らしくない12月が続いています。皆様はお元気でしょうか。毎日少しづつ心と体を前に後ろに進めて欲しいものです。私は冬になり畑の作務が無くなり、Kidsらは夏がすぐて時間を持て余していますが、その分、数学の幾何や数論に凝って私塾の老先生のところに通っています。
 
さてタイトルの『正法眼蔵』の解釈は難しいですね。芭蕉の「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」が好きです。宣長の「紫文要領」も研究の余地は大いにある。
 
西田の 『物となって見、物となって行う』も素晴らしい。
シュタイナーの「快と不快の解釈」を単なるファンタジーと言って片付けるわけにもいかず。
 
ハーンの作品にはケルトと大和民族のスピリッチャルな共鳴を感じる。
 
西洋人として初めて出雲大社の本殿へ昇殿を許され、国造・千家専紀宮司と語らった。ギリシアのレフカダ島でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生まれましたということも因縁がある。ギリシャは西洋文明のスタート地点である。
 
出雲大社本殿 pauch.com/kss/g025
イメージ 1

道元禅師の『正法眼蔵』
 
自己を運びて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり

西田幾太郎の「物来たりて我を照らす」と。
 
心と物質、光も強いCouplingの中で生きているのかも知れない。
 
西田幾太郎の「物来たりて我を照らす」でしょう。
 
西田の『行為的直観』= 『物となって見、物となって行う』。

芭蕉 許六離別の詞
 
「画は何のために好むや」
「風雅のために好む」

 
と言へり.
 
「風雅は何のために愛すや」
「画のために愛す」

 
と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,
 
「君子は多能を恥づ」
 
といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.
 
されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.
 
予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,
 
これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる
 
と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,
 
古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ
 
と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ.
 
元禄六孟夏末             風羅坊芭蕉 印

 
宣長  
 
本居宣長の「物のあはれを知る」
 
よろづの事にふれて、おのづから心が感くといふ、習ひ覺えた知識や分別には齒が立たぬ、基本的な人間経驗があるといふ事が、先づ宣長には固く信じられてゐる。
 
すべての人の心といふものは、からぶみに書るごと、一かたに、つきづりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだりあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情(こころ)のあるやう書るさまは、やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼつる」
 
(「玉のをぐし」二の巻)
 
 「おほかた人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きっとして、かしこきは、實の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、實の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめ計也」
 
(「紫文要領」巻下)

シュターナー
  bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/note/S-note71-/S-note157
 
シュタイナーは、快と苦を内的な感情から外界を知覚する感覚器官に変化させることを示唆している。
 
   事物が私に快を与えるということが私にとって大切なのではない。
  私が快を体験するとき、その快を通して事物の本質を体験すべきなの
  である。快とは、私にとって、事物の中に快を与えるに適した或る性
  質がある、ということの表現以上のものであってはならない。私は、
  この性質を認識することを学ばねばならない。快のもとに留まり、快
  にまったく心を奪われてしまっているなら、ただ生活を享受するだけ
  の存在に過ぎなくなる。快が事物の特質を体験するための単なる機会
  に過ぎなくなれば、この体験を通して、私の内部はより豊かになる。
 
  快と不快、喜びと苦しみは、道を求める者にとって、事物について学
  ぶ機会でなければならない。
 
   道を求める者は、このことを通して、快と苦に対して鈍感になるの
  ではなく、快と苦が自分に事物の本性を打ち明けてくれるように、快
  と苦から自分を引き離すのである。この方向へ向けて努力するなら、
  快と苦がどれ程優れた教師であるか理解するようになるであろう。そ
  のとき人は、すべての存在とともに感じ、それによってその存在の内
  部からの開示を受け取るであろう。道を求める者は、「ああ、苦しい」
  とか、「本当に嬉しい」とか言うだけではなく、その苦悩がどう語り
  かけてくるか、その喜びがどう語りかけてくるかをも、常に知ろうと
  すべきである。外界に見出す快と喜びとを自分に作用させようと努力
  すると、自分と事物とのまったく新しい関係が育ってくる。
 
  以前は、特定の印象を受けとると、その印象がよかったとか、不快な気持ちに
  させたとかという理由だけで、あれこれの態度をとってきた。
 
  しかし
  快と不快とを自分の器官とした今、この器官を通して、事物がその本
  性について語り始める。快と苦とは自分の内部の単なる感情から、外
  界を知覚する感覚器官にまで変化する。
 
  (シュタイナー『神智学』ちくま学芸文庫 P.201-203)

76歳の時の小林秀雄言はく、物を考えるとは「我」と「物」とが深い交わりを結ぶということである

ファルカディオ・ハーンの作品には次の言葉が多い。
 
そもそも主観、客観に事象を別けたのはギリシャ人であろう。まあそれで科学が発展したが。
 
実在は一つなり。万象帰一。万物は一つなり。凡我一如。万物斉同

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