2015~16年にかけて米国を震撼させた、
ミシガン州フリントの水汚染公害。
ミシガン州フリントの水汚染公害。
機能しない行政に代わってこの問題を解決したのは、
環境エンジニアのマーク・エドワーズと学生たち、
そして地域住民だった。
発生から61年を迎えても“終わっていない”水俣病に、
東日本大震災がもたらした放射線被害を
経験してきた日本も、他人事ではない。
フリントに学ぶ「シチズンサイエンス」の可能性と、
市民を巻き込み、コミュニティを再生させるために必要なこと。
PHOTOGRAPH BY DAN WINTERS, TEXT BY BEN PAYNTER, TRANSLATION BY CHIHIRO OKA
BEN PAYNTER︱ベン・ペインター
『Fast Company』シニアライター。『WIRED』US版や『New York Times』などでも執筆している。2012年、自然甘味料「Truvia」に関する記事でジェームズ・ビアード賞の「環境・食政策」部門を受賞。@bpaynter
ミシガン州フリント。トニー・パラデノ・ジュニアは市内東部カーズリー・パークの側にある自宅で、鍵と1ℓの医療用プラスチックボトル2本を手に取った。片方はいっぱいで、もう片方は空だ。
1本目のボトルには昨日、家の水道から出る少し濁った水を入れたばかりだ。
2本目に水を入れるため、彼は何軒か先にある以前住んでいた2階建ての家まで歩いていく。新しい窓にベージュの壁板。
新しい住人を迎え入れる準備は整っている。
だが、この家はまだ借り手がついていない。パラデノがこのブロックに所有しているほかの3軒と同じように。
いったい誰が
行政が正しいことを
しているなんて
断言できるだろう?
行政が正しいことを
しているなんて
断言できるだろう?
前の居住者は2015年の冬、水道水が濁って汚れた沼のようなにおいを発し始めたころに出ていった。
市が水道水を煮沸するよう勧告し(大腸菌が含まれていたのだ)、消毒剤の副産物として生まれる発がん性物質トリハロメタンが高濃度で検出されたと警告を発したあとも、しばらくはここに残った人もいた。
同年の秋には、荒廃したカーズリー・パーク一帯で採取された水道水のサンプルの21パーセントから、鉛による汚染が発覚していた。
それどころか、フリントの住宅地全域で汚染が起こっていることが明らかになった。
ジェネシー郡の保健当局は2016年1月、水道水が原因の健康被害に関する新たな報告書を発表。過去2年間に、死者10人を含む87件のレジオネラ症が発生していた。
米国史上でも最大規模の公害だった。市全体が、金属もしくはバクテリアによる汚染の危機に晒されていたのだ。
フリントの市民活動家で貸家業を営むトニー・パラデノ・ジュニア。水汚染が起き、部屋の住人たちは出て行ってしまった。
パラデノが手にしているボトルは、ミシガン州環境基準局が行う汚染被害の調査のためのサンプルだ。
彼は壊れた火災報知器が発する音を無視して家に入り、ボトルに水を入れるためにキッチンに向かった。採取した水は市役所に届けることになっている。が、パラデノはあとで飲み物が欲しくなるかもしれないと、木々や郵便ポストに立てかけられた表示に従って、新型のビュイックで市内中心部に向かった。
大きな青い矢印と「水の配布」と書かれた表示をたどっていくと、消防署の駐車場に行き着く。軍服の上にオレンジ色のヴェストを着た州兵が、1.8mの高さに積み上げられた飲料水のボトルを見張っていた。
以前は飲料水を受け取るためには身分証明書を提示しなければならず、1人1ケースという制限もあった。
だが水をめぐって一度大きな騒ぎが起き、それからは1人2ケースまでになり、IDも必要なくなった。
パラデノは妻と一緒に来て4ケースもらっていくこともある。今日は州兵の1人が彼に気づき、トランクに水を積んでくれた。「心配なのは」とパラデノは言う。
「夏がきて暑くなれば、この水をめぐって争いが起きるということだ」
市役所では、水道水のサンプルを持ってきた人たちがぼんやりとした面持ちで列をつくっている。科学的な調査が行われているようには見えない。
実際のところ、状況は混乱している。どういうわけか、ボランティアとして水質検査に参加する住民の多くが適切でないボトルを使っており、こうしたサンプルは脇に避けられた。検査に必要な水道水の情報を記入するのを忘れ、記憶だけを頼りに質問に答えている人もいる。
こうした検査について、パラデノはすでに懐疑的だ。フリントの住民の大半と同じように、彼もあらゆる政府側の人間を信用しなくなっている。もし誰かがフリントを救うとすれば、それはパラデノのようにここで育った人々だろう。
しかし彼は、信頼できる人間を見つけることもできた。それは率先して住民たちを助け、フリントで何が起きているのか解明しようとした人物だ。大災害との闘いの最前線に立つ科学者で、みんなのヒーローである。軍服を着た州兵が給水所に水を運び、医療関係者が教会や小学校で採血を行っているようなこの街で、いったい誰が行政が正しいことをしているなんて断言できるだろう? パラデノは言う。
「マーク・エドワーズがやってきたとき、役人どもがやるべきことをやっているかどうかがやっとわかったんだ」
奇妙な水漏れ
2003年はじめ、カドモス・グループと呼ばれるある下請業者は、環境保護庁(EPA)の委託を受けて奇妙な問題の調査を進めていた。
ワシントンDCの住宅区域全域で、水道管に小さな水漏れが見つかる事例が多発したのだ。
カドモスはマーク・エドワーズというヴァージニア工科大学の若き環境エンジニアをコンサルタントとして雇った。
漏れが生じているのは家庭向けの銅の給水管に限られているようで、ポリ塩化ヴィニルのパイプや市が管理する配水管に問題は見つからなかった。
エドワーズは、市の水道水に問題があるのではないかと考えた。
米国では、自治体が供給する飲料水は、水道事業者に微生物や消毒剤の監視を義務づける飲料水安全法によって保護されている。
EPAは1998年、有毒な化学物質を発生する消毒剤についての基準を強化した。
昔からよく知られている有害物質は塩素だ。
塩素の代替品としてよく用いられるクロラミン(実は単なる塩素とアンモニアの化合物)は発がん性物質の生成量こそ少ないが、水の腐食性を強めるため、結果として金属の腐食を起こす。
freshwatersystems.com
ワシントンの上下水道庁は2000年、消毒剤を塩素からクロラミンに変えている。
被害状況を確かめるために住宅を訪れたエドワーズが目にしたのは、水漏れよりはるかに恐ろしいものだった。
腐食性の強い水道水が、給水管と接合に用いられるはんだを溶かしていたのだ。
これは鉛を含んでおり、鉛の入った真鍮が使われている水道メーターや蛇口でも腐食が起こっていた。
エドワーズが古いアパートの1階にある部屋で水道水の水質検査を行うと、測定値がエラーになった。
サンプルを蒸留水で薄めてから測り直すと、鉛の含有量は1,250ppb(parts per billion:10億分率)という結果が出た。EPAが定めた基準値は15ppbだ。
水道管の腐食は、フリントの住宅地全域で起こっていた。
配管の語源は「鉛」
鉛は、目立たないが便利な金属だ。硬くて柔軟性があり、比較的採掘されやすい。
加工が可能な程度に融点が低く、錆びない。
ローマ帝国では配管に用いられていた。英語で配管系統を意味する「plumbing」という言葉は、ラテン語の鉛(plumbum)から来ている。
最古のローマ水道であるアッピア水道が完成した紀元前312年当時ですら、その鉛に毒性があるらしいということに人々は気づいていた。
しかしピッツバーグ大学の経済学者ウェルナー・トレスケンが自著『The Great Lead Water Pipe Disaster』で説明したように、鉛管には問題もあるが、それを補って余りある利点がある。
19世紀の水文学者(地球上の水循環を研究する学者)の間では、湖や泉にコレラ菌が存在することが知られていた。
それでも彼らは、都市の生活用水を賄うために大量かつ衛生的な水源を必要とした。鉛の水道管がそれを可能にしたのだ。
実際、鉛は多くの技術において重要な役割を果たしている。
銃弾に適度な重さをもたせ、塗料を不透明にし、ガソリンの燃焼効率を上げるのにも使われていた。
しかし、鉛は有毒だ。
人体にとってはカルシウムのようなもので、周囲の環境から摂取されて骨や細胞に吸収される。
なかでも大きな影響を受けるのが神経系だ。
科学者たちは1970年までに、鉛はカルシウムとは異なり神経に取り返しのつかないダメージを与え、思考能力や神経回路の形成を阻害することを発見している。
致命的な過ち
ただ、水道管はすでに地中に埋め込まれていた。EPAは1991年に鉛と銅に関する規制を導入し、水道事業者に対して定期的に検査を行うよう義務づけた。
基準値は最新の研究結果に基づいて変更されてきたが、現行の規則では、住宅区域の1割以上で鉛の含有量が15ppbを超えた場合は何らかの対策を取るよう定められている。
大惨事が生じる前に問題を発見するために、測定基準を設定することは有効だ。あくまで水道事業者がルールに従っていればの話だが。
「ワシントンで
起こっているような
事態を目にしたら、
黙っていることなんて
できません」
起こっているような
事態を目にしたら、
黙っていることなんて
できません」
彼は闘うことにした。
そのためには、
始まったばかりの災害を
早期に発見する
必要がある。
ワシントンの住宅で問題が見つかってから、エドワーズは鉛と銅の基準値検査をめぐる規定を調べた。行政は水質検査は行っていたものの頻度が少なすぎたほか、採取した水道水のサンプルのほとんどを廃棄していた。
エドワーズは当局に、水を捨てさせず、また検査の頻度を増やすかたちで再検査を行わせた。
再検査では、ほとんどすべてのサンプルで鉛の含有量が基準値を大きく上回っていた。エドワーズは当局に、地域全体で水質検査を実施するよう申し入れた。カドモスが彼との契約を再び更新することはなかった。
2004年1月31日、『ワシントン・ポスト』が一連の隠蔽を報じた。
のちに議会に提出された報告書では、数万という住宅、実に水質検査の対象となった3分の2で基準値を超える鉛が検出されたことが明らかになっている。鉛の含有量が、有害廃棄物の水準である5,000ppbを超えたサンプルもあった。
さらにまずいことに、EPAは水道水に関して間違ったアドヴァイスを与えていた。
鉛の被害が大きくなってしまうような方法で水を流すよう人々に伝えていたのだ。
一方のエドワーズは、この問題に夢中に取り組むあまり、自宅の井戸水の管理を忘れていた。pH値は危険な水準にまで下がっていた。
「自分や家族のことを考えていませんでした。やるべきことをちゃんとやっていなかったんです」
と彼は言う。
「家族を鉛中毒にしていると気づいたときは、完全にパニックになりました」
それは受け入れがたい事態だった。
ある晩、エドワーズは自分が心臓発作を起こしたと思った。不整脈だった。