湯川博士、原爆開発関与疑われ聴取 終戦直後米軍に
2017年11月24日 17時30分 京都新聞
敗戦後の食料難に苦しみ、焼け跡をさまよう失意の日本に希望と勇気を与えた、京都大・湯川秀樹博士の日本人初のノーベル賞受賞。
没後36年を経て、湯川博士の戦時中の日記の内容が23日、明らかになった。
戦後、科学の平和利用と核廃絶を社会に訴えた湯川博士だが、生涯、黙して語ることのなかった自らの原爆研究との関わりや、戦争中の姿が日記から読み取れる。科学者の倫理とは何かを考えた原点と悔悟が垣間見える。
「午後 戦研 F研究 第一回打合せ会、物理会議室にて」
明らかになった湯川博士の日記1945年6月23日付に、こう記載されていた。
「F研究」
海軍の依頼を受けた京都帝国大の物理学者らによる原爆研究の名称だ。文章には自身を含めた出席メンバーの名前が続く。
7月21日付には
「午前雨 涼し 朝七時過家を出て京津電車にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で 九時帰宅」
とある。日常生活の記録のようだが、大津市で行われた京都帝大と海軍によるF研究最後の合同会議を指す。
この日の会議は関係者の証言から明らかになっている。
F研究の資料点数は極めて少ないが、会議に関連する
「U核分裂ノ連鎖反応」
「金属ウラン製造法 戦時研究 F研究」
などと題する研究者らのメモや報告書が残っている。
湯川博士は「世界の原子力研究」と題して講演したと伝えられている。
F研究の責任者は原子核物理研究に使用する円形加速器「サイクロトロン」の開発を進めていた京都帝大の荒勝文策教授だった。
原爆の開発にはウランを濃縮する過程が必要だが、そもそも当時の日本では技術的に無理だった。
必要な量のウランを入手することさえ困難で、大量の人や資金をつぎ込んだ米国のマンハッタン計画と比べて実現性は限りなく乏しかった。
敗戦直後、9月15日付の湯川日記。
「午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会(以下略)」
占領軍の米軍士官や原爆開発に携わった物理学者フィリップ・モリソンらと会談したことが記されていた。10月4日付にも
「朝早く登校、部長室にて米第六軍士官四名と会見。理学部の研究につき質問を受ける」
とある。
米側がのちに開示したトップ・シークレット文書と付き合わせると、原爆開発への関与を疑われ、聴取されたことが分かる。
一方、
「ユカワ自身は非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない。(原爆開発計画に)わずかしか関与していなかった」
とも、米の諜報機関側は推測している。