まさしく自分の目で自然を観察し、自分の頭で理解し、自分で作物に関わることが不可欠なのである。特にファーブルのような詳細な観察が重要。
では、どうすればよいのか。
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自然農法や有機農法によって作物の栽培に取り組むということは、誰かのテキストにしたがって栽培するということではないのである。
誰かのテキスト、誰かが作ったマニュアルにしたがって作物を作りたいのであれば、科学的研究の成果の上で作られたマニュアルに従えば良いのである。
自然農法や有機農法によって栽培しようと思うのなら、
(1)先人の教えを仰ぎ、著作から学びながらも、そこから離れて、
(2)自分の目で自然を観察し、自分の頭で理解し、
(3)自分で作物に関わることが不可欠
なのである。先人の研究や書物から理論を学び、それに基づいて作物に向かっても、それだけでは出来るようにはならないのだ。
概念・判断・推理などによって構成される思惟作用によって捉えられる事柄ならば、先人の教えを仰ぎ、書物を読むことで足りるとも言えよう。しかし、「精神が対象を直接に知的に把握する」ということが「直観」であるならば、「直観」には他人の思惟作用が入り込む余地はない。精神は各個人の中にしかないのだから、他人の教えを仰ぎながらも、自分でつかむ以外に直観でとらえる道はないわけである。
では、先人の研究や書物から理論を学び、それに基づいて作物に向かっても、それだけでは出来るようにはならないとはどういう訳か。
作物を畑で栽培するということは、実験室で理論を検証しているのとは全く違うことだからである。
実験室では、先人と同じ環境を整えて、理論を検証するための実験を行うことができる。しかし、百姓が実際に畑の中で作物に対峙する時には環境は複雑で理論が構築された環境とはぜんぜん違ったものにならざるを得ないのである。
仮に発芽の条件についてとりあげてみよう。種子の発芽には3つの条件が揃わなければならないと言われている。
水と酸素と適当な温度とである。実験室の中でなら、この3つの条件が必要であるという実証は、シャーレの中に種を置き、一つは水分を与えないサンプルを作り、もう一つは密閉された容器の中に水素か何かを入れて燃焼させることによって酸素を取り除いた空気を作り、その中に水を与えたサンプルを置いて発芽を待つ。3つ目は水を与えた種子を0℃以下の冷蔵庫の中において発芽を待つ。4つ目は水を与え常温として20℃くらいのところにおいて発芽を待つ。このようにして、4つ目のサンプルだけが発芽し、他の3つが発芽しなければ、この3つは発芽の条件であることがほぼ確認できる。
ところが、実際の畑の中に種を蒔いて3週間ほど経っても発芽が見られなかったとき、何が発芽を妨げた原因であるのかを突き止めることは、初心者で有れば容易ではない。
水が足りないと言っても、9月始め頃に蒔く大根とホウレンソウとでは、かなり発芽の様子が違う。大根などはまだ夏のような暑さの中で、乾燥した土に種を蒔いても結構芽を出す。ところが、ホウレンソウは蒔いた後で水をかけた位では発芽しないこともあり、種まきをする前に水に漬けておいてから蒔く人もいる。酸素不足と言っても、種を蒔いて土をかけたとき、酸素が不足しているのかどうかの判断は難しい。適当な温度については種子の入った袋に適温が書かれてはいるが、それ以下の場合やそれ以上の場合必ずしも発芽しないとは限らず、極端な温度でない限り判断は難しい。だが、3週間経っても双葉が見えないとき、その原因が、水、酸素、温度だけに原因があるといいきれる訳ではない。
現実には、種子が何らかの理由で死んでいたとか、よく吟味すると虫に食われていたとか、発芽はしたが土に根を下ろすことが出来ず枯れてしまい、発芽しなかったと認識してしまったというようなことがあり得る。さらに種子によっては、この3つの条件の他に満たさなければならない条件があるものもある。たとえばオーストラリアに生えている樹木の種には山火事によって極端な高熱に晒されないと発芽しないものがあるといわれている。そして、発芽はしたが土に根を下ろすことが出来なかった場合には、なぜ根を下ろすことが出来なかったのかについて、その原因を特定することはさらに難しいことになってくる。
実験室の中では、原因を特定することが簡単な問題でも、現実の畑の中で原因を特定することは簡単ではない。ましてや、野菜に虫や病気が着く場合、その原因が何であるのかを特定し、その原因を取り除くということになると、戸外から隔離された研究室で行う実験とは全く違う困難がある。研究室の中では、色々なサンプルを作って実験することが可能だが、戸外の畑での実践的な栽培の中では実験の名に値する実験は困難である。
戸外の畑では、畑によって土の種類や成分、養分が違うし、気候によって温度、湿度の変化がある。虫や病原菌の飛来にも無防御である。日照も違う。使っている畑の栽培歴も違う。だから畑での実際の栽培では、種子が発芽しないとか、病気が発生するとか、虫が着くことの原因を究明するということははなはだ困難である。虫が着く原因を確認するために、仮に青虫が着くキャベツと着かないキャベツのサンプルを畑の中に作れという問題を出されて、一体何人の人が出来るだろうか。虫が着くキャベツと着かないキャベツを確実に作る能力がなければ、虫が着く原因を特定する実験は出来ないのである。虫が着くキャベツと着かないキャベツを確実に作る能力があれば、そもそも実験など不要である。
実際の作物栽培では実験は不可能ではないにしても、大変困難なことである。
しかし、実験の困難なところでは、観察というやり方が有効である。
実験と観察の大きな違いはどこにあるだろうか。実験は実験者の思惟、思考によってサンプルを作り、予想した結果を検証することである。観察は観察対象の環境とその変化を克明に追い、そこで起こっていることを受け止めることである。実験は実験対象に対して、実験者の考えを持ち込むが、観察は観察者の考えを観察対象に持ち込むことが出来ない。実験は人間の能動的な行為であるが、観察は受動的な行為である。実験は、人があらかじめ何らかの結論を予想ないし期待をして行う行為であるが、観察においては前もっての結論や予想は必要がない。
観察においては目の前に繰り広げられる現象をそのまま受け入れるほかはない。そして観察の結果を自分の頭で考え、解釈し、理論化しても正しい理論になるとは限らない。自分の考えや解釈をせずに観察の結果をそのまま受け入れることが肝心である。
観察によって直感的に認識したことは作物の栽培において活用することや、認識したことが正しい内容を含んでいるかどうかを検証してみることができる。たとえば、
「大根に着く虫は季節によって多さがかわる。」
ということを認識したとすれば、虫が沢山着くと思う時期に種を蒔き、また虫が少なくなると思う時期に種を蒔いて、確認してみればよい。
観察によって捉えた認識の真偽を確かめるための実験は、実験効果を得られやすいが、観察なしの正しい認識を発見するための実験は、無数のサンプルを作ることが必要になり、無駄な実験を大量にこなさなければならない。熟慮を重ねて作ったサンプルであっても正しい認識にたどり着くことが不可能な場合も度々有る。サンプルの作成はその実験によって正しいものとそうでないものを区別できる結果を期待して作るのであるが、サンプル作成者の頭の中に正しい認識が含まれていない場合には、作られた実験サンプルの中に正しいものがないので、実験は徒労に終わる。
実験には実験設備や道具立てに費用がかかるが、観察の費用は全くかからないか、かかっても極端に少なくてすむ。
自然観察とはどういうことかといえば、今目にしている自然現象がどのようにして引き起こされたのか、そして何と関連しているのかを観るということである。そこでは
「目前の自然現象には原因があり、その原因は自然の中に存在する」
「さまざまな自然現象は互いに関連し合っている」
「さまざまな自然現象は互いに関連し合っている」
ということが前提となっている。たとえば一輪の花が目前にあるのは、茎や葉、根の活動の結果であり、茎や葉、根は一粒の種から生じ、根元の土や空気中から養分を取り込んで生長する。一粒の種は一輪の花から生ずる。といったように、目前の現象には原因や関連があるのである。同じく、作物が病気になったり、虫が着いたりするのは、それなりの原因が存在するのであるが、その原因は自然の中にあるのであり、人の心やその外のところにあるのではない。
自然現象の因果関係を理解するには、観察することが必要であり、人の思考による解釈ではなく、観察対象からありのままの因果関係を受け取ることだけが必要である。自然現象の因果関係は、観察すればすぐに見えるものばかりではない。なかなかその姿を現さないものもある。
私は、アブラナ科の植物に群がる青虫が、どのようにしてキャベツにやってくるのか不思議に思っていたが、その瞬間を確認できるまでに何年も経っていた。その瞬間を見ることで分かってしまえば、なんと言うことはない。ひらひら飛んでいるメスのモンシロチョウが葉にお尻をつけては、その瞬間に卵を産み付けてゆき、その卵が一週間程度で孵化して虫になるのである。どこかで大量に生みつけられた卵が孵化し、虫になって土の上を這ってキャベツの葉にやってくるのではない。
しかし、モンシロチョウは一個ずつ卵を産み付けてゆくが、一箇所に大量の卵を生みつけ、そこで孵化した虫があちこちへ分散して行き、被害を拡大してゆくものもいる。
また、大根や白菜の幼苗期にハイマダラノメイガの幼虫が沢山着いて、手で取り除いても次から次と出てくるという経験を何度かしたことがあるが、私は未だにこの幼虫がどのようにしてやってくるのか、この目で確認できていない。このような虫の産卵のあり方をつぶさに観察することが出来れば、虫害対策もまた個別の効果的な対処が可能になってくるのである。しかし、この虫がどこからどのようにしてやってくるのか確認ができていなくても、私は、観察を続ける中でこの虫に関して別の認識を得ることができた。
それは、種まきの時期によってハイマダラノメイガの幼虫が沢山出てくる場合と、比較的少なくて甚大な被害に至らない場合があることに気がついた。
8月の終わりから9月はじめ頃のまだ気温が高い頃に種まきをするとたくさん出てくる。しかし、9月半ば以降になると減ってくるのである。大根の生長は、種まきの時期が早めの方が大きくなるが、虫が着くリスクも大きいのである。私はこのあたりのことを念頭におきながら種まきの時期をきめている。
病気が発生するのも、つぶさに観察を続けていけばしだいにその原因や防除の方法が見えてくる。視覚に映るわけではないが、原因や防除方法がわかってくるのである。一例であるが、トマトを栽培していて、3、4年ほど梅雨時になると或る病気に悩まされた。根元に近い葉が黒くただれるように腐っていき、それがだんだん上に向かってひろがり、実まで腐っていくのである。人は疫病だと言っていた。
この状態をみていた或るとき、私はトマトの根の近くに生えている草やトマトの葉が混み合っていることに気づき、これが原因ではないかと思った。
以前には何年間もこの病気が発生しなかったが、草をとらずに放置しはじめてから発生するようになったのを思い出したからである。
そこで、梅雨に入る直前に草取りをし、同時にトマトの下の方の葉を第一果房あたりまで取り除くようにしたのである。これによって私はこの病気から解放された。
虫が大量に発生するとか、病気が発生するのは理由や原因がなくて発生するのではなく、これらも自然現象であり、自然現象は結果であって、必ず結果を導く原因があるのである。結果を導く原因はやはり自然の中に見出すことができる。もっともその原因は人為の結果として発生することもあるのではあるが。
虫の話をついでにすると、よく食物連鎖、天敵論が持ち出されて、虫が他の虫に退治されるという話がある。バランスのとれた畑では虫が虫を食べることによって虫害が発生しないと言われる。私のこれまでの観察では、白菜についた青虫やヨトウムシがハサミムシに退治されているようだと感じたことは度々あるが、その他の例では確かなものは見た事がない。
畑以外では、蟷螂が蝉を捕まえて蝉のお腹を食べているのを見たことがある。小さな虫たちの世界ではあるが、テレビで見るライオンや豹の狩と同じく、凄まじいドラマを見ている気がして、顔を背けたくなった。
また、家の軒先にアシナガバチが作った巣をスズメバチが攻撃し、アシナガバチとその巣がスズメバチにガリガリと噛まれて壊れて行くのをみたことがある。噛み殺されたアシナガバチが巣の下に散らばり、怯えて悲しそうな表情で遠くから巣を眺めているアシナガバチもいて、ハチにも感情があるように感じたことがある。虫たちの狩を見た記憶はこれくらいしかない。だから、天敵、食物連鎖については、話しとしてはよく分かる気がするが、
実際に現場を見たことはこの程度しかないので、私はハサミムシを見たらそっとしておいてやることと、蟷螂、蜘蛛のように虫を食べる動物を見つけたらそのままにすること以外には、栽培する上で何の考慮もしていない。
テントウムシがアブラムシを退治するという話しも、アブラムシの発生は度々あるものの、一度も見たことがない。こういうことを私が言うのは、別に天敵論を否定するつもりで言っているのではない。自分では見た経験があまりないから実践上何の考慮もできない、ということを言っているのである。
「作物を栽培する現場では他の人が言っていることが必ずしも、同じように再現されるものではない」
ということを言っているのである。だからこそ、自然農法においては、先人の言葉で作物に向かうのではなく、自分の目を通して観察し、その観察によって判断し、対処することが必要だと言っているのである。