私は「御告げ」と言って向こうからくる言葉を注視している。出来ることはサーフィンのBigWaveのようにただひたすら待つのみである。もちろん実験や観察などはしているが。
自然観察
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自然観察においては、自分の頭を少し回転させれば、次々と疑問が出てきて、その疑問解決のための観察を続けることができる人もいるかも知れないが、私のような鈍感な人間は、たまに「あれっ」と思って「なるほど、そうなのか」とか「なぜだぁ?」と思い始め、その答えを見つけ出すのに数年かかるということがある。
野菜栽培を始めた1年目に完全な不耕起、無除草、無農薬、無肥料でびっくりするほどよくできたキュウリが、同じ畑で翌年は散々な結果になったのは何故か、という疑問の答えは21年経った今でも出ていない。
この答えが出てくれば、私の農法に関する興味は終わる。
たまに、「あれっ」と思うことは、普段疑問に思っていたことの答えを見つけたときでもあり、また、新たな疑問の始まりであったりもする。だが、なぜ「あれっ」なのか。
「あれっ」と思うのは、意外性である。その瞬間まで自分の頭の中になかったことが、突然目の前に現れる時である。
自分の意識の中に全くなかったもの、つまり自分にとって存在していなかったものが、ひょっこり現れて、現れた瞬間に確固とした存在になってしまうことである。第3者や、神の目にはしっかりと映っている存在であっても、私が意識していないものは、私にとっては非存在であり、無である。
この非存在・無を私が意識する瞬間がある。この非存在・無が私に意識されて存在になる。
私が意識して存在になる瞬間が直観である。私によって意識されていない或る事実、つまり、私にとって非存在であるものは、私がいくら頭を廻らせ、論理的に思考を進めても、その思考の中には決してその姿を現すことがない。
私の意識の外にあって、それを私が意識する瞬間が直観であり、この直観によって存在と認めた時が私の「発見」である。私の中で一度発見されたものは、私の思考の中で繰り返し顔を出す。
しかし、私が意識したことのない事実、私に発見されていない事実は、私が100万回頭を廻らせても、私の思考の中でその顔を出すことはない。
だからこそ、自然を認識するということは、概念、判断、推論といった思考によって導かれるものではなく、まさしく直観によってのみ可能となるのである。概念、判断、推論といった思考(思惟)が幅を利かせるのは、直観が掴み取った内容の吟味をする時である。直観の中身を整理するときである。
私の思考は、自分が意識したことの無いものを見つけ出すことはないが、「予想」を導くことはある。この予想は新たな観察か、実験によって確認されることもあるが、いつまで経っても確認出来ないこともある。
先ほど述べたように、「あれっ」と思うのは、普段疑問に思っていたことの答えを見つけたときでもあり、また、新たな疑問の始まりの時でもある。人間の思考・思惟に信頼をおく人は、この新しい事実の認識をすると、しばらくの感動の後、しだいに頭を廻らせ始める。普段抱えている疑問の答えを見出したと思うときは、それを一般化する言葉・命題にしようとする。理論化しようとするのである。
そして又、新たな疑問の始まりの時には、問題点を整理し、分析しながらその答えをあれこれと考え始めるのである。「あれっ」と思って、今まで自分の頭の中になかったことを意識すると、人はあれこれと思考を始めるのである。
そして、自分なりの結論を出し、次の実験・実践において検証しようとするのである。この検証において、自分の結論が正しいと確信できる場合もあるが、出来ないときもある。正しいと確信できた場合には、実践の場でその理論を繰り返し使用するのであるが、反対に確信できなかった場合には、新たな疑問を抱え、悩み始めるのである。
だが、人間の思考・思惟に重きを置かない人もあり、そのような人は、自分の直観のまま動く。普段疑問に思っていたことの答えが見つかったときには、それで「良し」とし、「あれっ」と疑問が生じた時には、疑問を抱えたまま時を過ごして、いつか「あれっ、まぁ」と答えを見出すのである。
人間が、真理に近づくということは、「既に自分の頭の中にあること」をあれこれと組み合わせてみることではなく、自分の頭の中、自分の意識、自分の認識の中には無いことが、前触れも無く突然、自分の頭、自分の意識、自分の認識の中に生ずるということである。
これは、自分の思考によっては決して実現されることはないのであり、誰かの働きかけによって認識させられるか、あるいは自分の直観によって捉える以外にはなく、認識する自分は常に受身の立場、受動的立場でしかない。
「チャンスの神様には前髪しかない」という言葉があるが、認識するチャンスは向こうから自分に向かってやってくる。向かい合った瞬間に直観によって捉えた者は、あらたな認識を獲得できるが、漫然と構えて直観を働かすことの出来ない者には、つかまえるチャンスはもう遠くへ去っている。
人間が、真理に近づくこと、新たな認識を獲得することは常に受身であるといっても、ただひたすら受身で、何も考えずに待っている人間には、決してその時がやってくることはない。
明確な疑問、明確な問題意識を抱えている人間のところに新たな認識、真理はやってくるのである。疑問も無く、問題意識も無い者は、自然がその姿を現しても、そこに何も見ることがない。
蜘蛛が獲物を確保するために糸で網を張っておくように、漁師が魚を取るために釣り針を垂らしておくとか、網を張っておくように、新たな認識に巡り会いたく思うものは、自らの思考によって網を張っておかねばならない。
すると、チャンスはその日に来るか、3日後になるか、あるいは5年後、10年後になるか分からないが、時が満ちればひょっこり顔を出してくるものなのだ。もちろん、その人の生きてる内にはやって来ないこともしばしばではあるけれども。
個々の人間の意識は、知覚、感覚、記憶、思考、言葉、表象、感情といったもので構成されているが、意識の表面に出てきているのは、常に意識の一部である。意識を構成する知覚、感覚、記憶、思考、言葉、表象、感情のほとんどは通常は脳の中の格納庫に収まっている。ものを考えたり、判断するときにはそれらを格納庫から取り出してきて、考え、判断を下すのである。人が思考するときはこの格納庫の中にあるものだけを使って思考しているのである。
各個人の意識の中に存在するものは、いかに博学、経験豊富な人の頭脳であっても、世界全体、宇宙全体の存在に比べれば無限に少ないと言って差し支えない。
各個人に限っていえば、その人の意識のどこにもなかったものが新たに意識されることは、その人にとって大きな「発見」である。だから、発見は常に直観とともにあるのである。一個人にとっては大きな発見であっても、人類全体を見渡してみれば、同じ内容について既に他の誰かに意識されていることは無限にある。だから、自分が大きな発見をしたと狂喜乱舞してみても、実は既に他の人が発見していたということは普通にあることである。自分がただ無知であっただけである。
人類全体の意識の内に、どこにも、だれにも見当たらなかった新しい意識を生み出したものこそが人類にとっての新しい「発見」である。人類がはじめて発見したものは、しばしば人類の歴史を変える偉大な力を持つが、無知無学ゆえ、「おれが発見した」と勘違いする陳腐な発見であっても、その人個人の人生を変える力がある。
ここまで、「直観」について、「その人の意識の中に存在しなかったことが意識される瞬間」という観点で論じてきた。だが、「直観」はもう一つの意味を持っている。
「これまで意識されたことが無いもの」が新たに認識されるのではないが、時事刻々、生起してくる情報に対して判断を下していく働きとしての直観である。人は新しい情報を得て、判断するときに思考して、つまり、よく考えてから判断を下すことも多いのであるが、思考という経路を通らずに判断を下すことも普段にあるのである。感覚や言葉を通して受け取る情報に対して、思考することなく判断を下していくということが人にはあるわけである。思考・思惟による判断ではなく、直観による判断である。たとえば、車を運転するときに、初心者は信号や道路の状況を目で見て、考えてからハンドルやペダルの操作をするのであるが、慣れた運転手は考えることなく、ハンドルやペダルを操作しているのである。この運転手は考えて判断するのではなく、直観によって判断しているのである。熟練したものは、考えながら運転する方がかえって恐くなるものである。熟練者は信号や道路の状況を見落としはしないが、信号や道路の状況について考えるより、むしろ運転とは関係のない事を考えていることが多い。「判断」する「直観」は思考を省略しているから論理的な判断ではないが、繰り返し経験したことに基づく「熟練」の判断であるから、間違いはほとんどないのである。このように、人の判断には思考による判断と、直観による判断があり、時によって使い分けられているのである。このような直観による判断が可能なのは、熟練しているからである。
人が思考を経ないで判断したり、行動したりすることは失敗すると「よく考えてやれっ」などと罵声を浴びることにもなるが、熟練によって思考を経ずに判断し、行動できるようになることは実は理想的な判断であり、行動である。たとえば、人は話しをするときに言葉を使って話すのであるが、普通は自分が使う言葉の意味を考え考えして話すのではない。言葉の意味をいちいち思考を通してから話していたのでは話しにならない。初めて聞く言葉、初めて使う言葉は、その意味を考えながら聞き、話さなければならないが、なれた言葉を聴き、なれた言葉を使うときはその意味を考えることなく、聞き取り、話すことができる。多くの経験をし、熟練して深い理解をした言葉を使うときには言葉の意味を考えながら使う必要はないのであり、直観のままで聞き、話すのである。
こうして、「直観」には「今まで認識していなかったことの認識」と「思考を省略した判断」という役割があることが確認できると思う。そして、直観は思考と共に人間誰しも、日常普段に行使していることなのである。
次に、直観によって認識された内容を、人はいかにして他人に伝えることが出来るかという問題に移りたい。この問題は実は、この稿の始めの問題に再び立ち戻るということでもある。
人は誰でも、自分が新たに認識した事柄について、人に伝えたいという衝動を持っているし(隠しておきたいという衝動もあるが)、また自分が下した判断について、他人に説明しなければならない時がある。人は自分が「発見した」と思う事柄を、人々の役にたつことと思えば、それを伝えたいと思うのは当然であろう。また、自分が下した判断について他人が疑義を唱えるような場合にはとくに説明が求められる。つまり、自分の直観の中身を他人に伝えなければならない時があるということである。この直観の中身、内容を他人に伝える場合、「直観」の形式のままでは伝えることは不可能である。直観はその人の頭の中にしかない。他人に伝えるためには、何かを媒介にして伝えなければならないのである。たとえば、仕草とか言葉、音、絵などの媒介によって伝えることが必要なのである。媒介するものが無ければ、他人には決して伝わらない。しかし、仕草や言葉、音、絵などを媒介として伝えれば、正確に伝わるのかどうか、といえば、必ずしも伝えきることが出来るわけではない。一般によく使われる言葉を使って伝えようとすれば、伝える側の人間が自分の直観の中身を正確に表す言葉を選ばなければならないが、全く新しい認識、新しい発見である場合には、そのことを表す言葉は見当たらないのが常である。言葉が無ければ、造語するしかない。新しい言葉を作るとすれば、その新しい言葉の定義をする必要がある。言葉の定義とは、「定義されようとする言葉」の意味を「よく知られた言葉」で規定すること、あるいは置き換えることである。しかし、新しい言葉をよく知られた古い言葉で表現しても、新しい言葉の全てを言い尽くせるわけではない。
たとえば、いま私が「へなちょこ」という新しい動物を発見した、と言うとしよう。すると人は「へなちょことはどんな動物か」と聞くであろう。すると私が「へなちょこは哺乳類と爬虫類の両方の性質を持っている」と言う。「両方の性質を持っているとはどういうことか」と聞かれる。すると「卵を産むが、孵化した子供に乳を与える」という。すると、「体の格好はどんな具合か」と問われる。「ワニやトカゲのように尻尾があって、4つ足で這い回っている。」と答える。「乳房はどこにあるか」と聞く。「腹の下にある」と答える。
「這い回っているとき、乳房はどうなっているか」と聞く。すると「へなちょこは4つ足があり、這い回っても蛇のように腹を地面にすりつけることはなく、後ろ足の少し前に乳房が2つあって体毛に保護されている」と答える。すると「体毛は全身を覆っているのか」と聞く。すると「背中は鱗で覆われ、腹部は毛で覆われている」というように、言葉で説明するということになると、延々と続くのである。そこで、「では、そのへなちょこをここへ持ってきて見せてくれ」といわれる。「いや、ここに持ってくることは出来ない」とでも答えようものなら、もうその話しは作り話だと思われてしまう。だが、持ってきて見せることが出来たなら、人は「へなちょこ」を吟味した上でその発見を「発見」として承認するのである。
ところが、動物のような一つの物体である場合は、それを直接目に触れさせることが出来るので、見せることが出来れば、相手は大体了解することができる。しかし、人間の造る言葉には人の目に触れさせることの出来ないものがある。たとえば、心、神、仏、霊、真、偽、誠、善、悪、法則、定理、原因、結果、幸福、等々。このようなものが存在するかどうかは、人によってかなり異なってくる。
「心」が存在することは、五感で捉えることができなくても、ほとんどの人がその存在を認める。自分の中に心が存在していることを直観しているからである。しかし、「神」「仏」ということになるとどうであろうか。神仏の存在を確信している人がいくら言葉を尽くして説明しても、その存在を否定する人はいくらでもいるのである。反対に「神」「仏」を直観する人は、少ない言葉でも受け入れるのである。このように言葉によって説明することは、受け手が自分の実体験をもとに直観するかどうかによって受け入れるか否かが決まるのである。心、神、仏、霊、真、偽、誠、善、悪といった言葉・概念は、自然界の概念と違って実体がないから認める人と認めない人とが出てくるのであって、自然界については実体があるから認める人と認めない人が出てくることはないと、考える人もあるであろう。しかし、自然界についての認識に関しても、様々な説が生まれては消えて行き、人々が認めるものと認めないものとは常に存在するのである。先ほど述べたが、「天敵によって自然のバランスが保たれ病虫害がなくなる」という理論について私は否定する根拠を持たないが、いまだ肯定する程の事実を確認していない。
また、私は
「健康に育つ野菜には病虫害がつかない、病虫害は不健康な野菜につく」
という見解を持っているが、これは物体ではないから人が五感で感じ取ることのできるものではない。神の存在は五感で感じ取ることは出来ないが、その存在を認める人は沢山いる。そして、認めない人もいる。
このように、或る人が直観した内容を他人に伝える場合、五感で捉えることのできないものを言葉だけで伝えることは極めて困難であり、直観の内容が全人類を見渡してみても全く新しい内容である場合、それを他人に理解させることはますます困難なことである。受け手の側に、同様の直観、体験がある場合は容易に伝えられるが、そうでない場合にはなかなか伝わらないのである。五感で捉えられない現象は精神世界、社会現象だけでなく、自然界にも無数にある。たとえば宇宙や地球の誕生の瞬間とか、生命における新種の発生とか、物体としての脳と心の関係とか、人間の通常の感覚だけでは捉えきれない問題は無数にある。そうした問題には常に論争が発生する。「宇宙や地球には誕生があり、それは数十億年前だ」と言われたり、「宇宙はビッグバンで生まれた」などと言われても、われわれの五感で捉えることは出来ない。それらは最初、誰かの頭の中に直観として生まれた意識であり、その「発見」を人に伝えることは大変難しい。
同じテーマで研究している科学者同士なら、「発見」の中身を理解してもらうことは容易だろうが、私のようなぼんくらに分からせることは容易ではない。私がそれを理解するには、私自身が彼らと同じ程度の学習と研究を重ねることが必要である。
ここで、釈迦の話しをすると、話しが飛ぶと思われるかも知れないが、あえて釈迦の話しをする。というのは、私の見解では釈迦の話しも科学の話しも農法の話しも同じことだからである。
釈迦は長い修行を経て悟りを得た。悟りを得た後、自分の悟りの内容を人に伝えるため、説法をした。しかし、彼は伝えるために説法をしただけではない。彼は弟子を作った。弟子は釈迦と同じように修行をし、そして釈迦の悟りを悟った。釈迦の説法を伝えるための沢山の経典が残されたが、仏教は経典だけではなく、厳しい修行も世代をこえて続けてきたのである。その理由は、言葉だけでは釈迦の悟りが弟子に正確に伝わらないからである。釈迦の悟りとは、釈迦が直観したものである。直観の内容をきちんと伝えるためには、弟子も釈迦同様の修行体験が必要だったのだ。仏教では膨大な経典と厳しい修行が並行して伝えられている。釈迦の直観を人々に伝えるためには、言葉だけでは不可能であり、また修行だけでも不可能だったのである。修行は悟りを得た師となる高僧のもとで行われ、悟りを得た弟子はその師の印可を受けるのである。いくら修行を重ねても、師の印可が無ければ本当の悟りとは認められない。このように仏教では、釈迦の悟りを伝えるために、言葉・経典と修行の両方を残したのである。
新しい直観の中身、新しい発見、新しい見解、新しい概念を人に伝えるためには、言葉で説明することが必要だが、それだけでは伝えることは十分ではなく、受け手の側の体験、修行、実験、直観といったことが必要であり、それを求めたのである。
「直観による認識とはなにか」という問題をずっと考え続けていた私は、以上のように理解した。整理すると、直観とは「人がそれまで認識していなかったことを認識した瞬間のまだ思考によってけがれていない認識のことであり、また、新しく生起してくる状況、新しい情報への思考を経ない判断」のことである。そして、直観の内容が人に伝えられるためには、言葉、音、仕草、絵などの媒介が必要であるが、それだけでなく受け手の側の体験、実験、伝え手同様の直観が必要だということである。
このように「直観による認識」を捉えてみると、「直観による認識」とは、特異な認識方法ではなく、人間がごく普通に行っている認識のことであり、何か特別の認識方法であるのではない。むしろ、以前から「思惟・思考が真理を捉え、対象を捉える道だ」と考えていた私の考えの方が逆立ちしていたのだ。直観により捉えた内容は実践、実験によって検証されなければならない。そうでないと直観は単なる思い付きになってしまう、という弱点もあるが、新しい認識は直観から始まる。思惟・思考なしには直観の内容は明らかにならず、検証されないが、思惟・思考だけでは単なる妄想でしかない。人の正しい認識のためには、直観と思考・思惟が必要であり、直観偏重、思考・思惟偏重はいずれも誤った認識を引き起こすと言っていいだろう。
次に、福岡正信は「直観」という言葉と「悟り」という言葉を同義の言葉として使っているところがあるのだが、その点について論じてみたい。
「直観」と「思考・思惟」が対を成すとすれば「悟り」と対を成すのは「迷い」である。
「迷い」は「人が考えている状態」を示す言葉である。考えることは、あれこれと結論を探すことである。考えている状態からの脱出こそが必要なのであり、脱出できたときが「悟り」である。「迷い」の原因を突き止めた時が「悟り」の時であり、「判断の迷い」を決断によって断ち切った時が「悟り」である。人の日常は「迷い」と「悟り」を繰り返しているのである。それは、「直観」と「思考・思惟」を繰り返しているのと同じことである。
人は話しをするときに、使い慣れた言葉を使うときにはその言葉の意味を考えずに使い、使いなれていない言葉を使うときにはその言葉の意味を考えながら口にする。人が考えながら事を進めている時には「迷い」があるのである。「迷い」ながら話している人の話は他人には伝わりにくいか、伝わらない。何をするにも「迷い」の経験なしの「悟り」はないが、迷いはいつか断ち切ることができなければ「悟り」はない。何かの習い事をする場合に、あれこれ考えながらやる人もいるが、考えることなくひたすら練習に励み、体に直接覚えこませる人もいる。頭で覚えるのではなく、体で覚え、手で覚えるのである。初心者が自転車に乗ったとき、操作を考えながらハンドルを握る人は転倒する。しかし、考えることをやめ、体でバランスをとることを覚えたものは転倒しない。頭は他の事を考えていても転倒しないのである。体で覚えることは頭で覚えることより優れているのである。覚える機能は脳にあるだけで無く、体にもある。そして、体で覚えることを担っているのが直観である。自転車に乗ってバランスをとることを一度おぼえた者は、大きなアクシデントを除けばもはや転倒することは無く、高齢になっても体が正常に機能する限り忘れることはない。これは、バランスのとり方を「悟った」ということであり、本当に理解したということである。
「悟る」というのは、頭で覚えるのではなく、手で覚える、体で覚えるということと同じことである。仏教の修行者たちが肉体に大きな負担をかけながら修行しているのは、体得するためである。
福岡正信が、自然農法を「悟り」として捉えていたのは、自然の営みを捉える上で「思考」に主導権を渡さず、「直観」によって捉え、「体得」することこそが肝要だと思っていたからである。彼は、作物の様子を「直観」によって捉えなければならないといったが、農業の初心者が「直観」で作物の様子を捉え、判断することは無理である。「直観」によって捉え、判断することが出来るのは「体得」しえた者だけである。
自然農法を体得するには、直観を主として、思考を従とし、己の体を作物(植物)に馴染ませる修行が必要なのだ。僧の修行に終わりがないのと同様、自然農法に修行の終わりはない。
私の世代は、学校で「悟り」の教育をほとんど受けていない。教師の口から「悟りなさい」という言葉は聴いた覚えがない。聞いたのはいつも「考えなさい」だった。考えることは「迷い」である。私たちはずっと「迷い」の教育を受けてきたのだ。いつも「迷いなさい」と言われ続けてきたのである。「迷い」も「悟り」への入り口ではあるが、「迷い」は「悟り」へと続かなければならない。
幕末に廃仏毀釈の嵐が吹き、悟りの仏教は明治政府から排除された。戦後は宗教教育が排除され、宗教的臭いのする「悟り」は教育から消えた。
学校教育は「迷い」の思考力と記憶力が優先されるペーパーテストの世界になってしまったのだ。
「直観と思考・思惟」を「悟りと迷い」の関係に置き換えてみると、仏教者の教えがよく理解できるように思われる。
私は「迷い」の教育から自ら抜け出すのに21年を要し、還暦になっていた。
(2010.02.17)